第三十五話 華月堂の扉を開けると、そこには


 翌々日。


「おはようござ……」

 すっかり気分もよくなった花音は、勢いよく扉を開けて固まった。


 伯言が事務室の椅子で朝のお茶を飲んでいるのはいつも通りだが、見たことのない男性が一人、配架本が積まれた荷台から本を取って並べている。


「そ、そんな! 一日お休みしただけであたしはクビですか?!」


 思わず叫んだその声にその男性が振り向き、伯言が事務室から出てくる。


「誰がクビって言ったのよ」

「だ、だってですね、その……新しい司書の方が……」


 男性が愉快そうに笑った。墨を薄く溶かしたような、暗い色の珍しいメガネをかけている。


「驚かせてしまいましたな。私も本が好きなもので、つい手に取ってしまいましてな。申し訳ない」

「いえ、そんな」

「私は伯言殿の友人で、玄雷げんらいという者。宝珠皇宮で長年、庭師をしております」

「は、はあ」


 庭師。どおりで変わった外見をしていた。武官でも文官でもない、動きやすそうな衣装。物腰や顔の皺から、年齢は伯言よりずっと上に思えるが、逞しい体つきは一見、飛燕や柊に雰囲気が似ている。腰に下げた大きな布袋や暗色の眼鏡を見れば、庭師という職務は頷けた。


「失礼しました。あたしは、司書女官の白花音と申します」

「お噂はいつも伯言殿から聞いていますよ。お身体はもう、大丈夫ですかな?」

「え? は、はい、大丈夫です」


 花音が嗅がされたのは、薬草園でしか栽培されないアサガオの一種から採れる強い睡眠薬だった。大量に摂取すれば死に至ることもあるという。

 しかし花音の場合、お香として調合された物だったので副作用はほとんど出ず、昨日の昼過ぎには女官寮に帰され、久しぶりに女官寮でたらふく夕飯を食べた後はすっかり元通りになったのだった。


 庭師・玄雷はにこにこと笑んで頷いた。

「それはよかった。司書の仕事だけではなく、本を配達したり、よく働く方でたいへん助かっていると伯言殿も申しておられれる」

「え?! 伯言様が?!」


 そんな? あたしをほめるようなことを?? と伯言を見るが、伯言はそ知らぬ顔で扇子をあおいでいる。



「それと、後宮内の事件もちょくちょく解決されておられるとか」


 眼鏡で目元が見えないが、玄雷の視線を感じた。


「解決なんて、そんな。あたしはただ本を大切にしたいだけでして……」


 司書女官になったのも本が読み放題したいからだし、本を悪用する人が許せなくていつのまにか事件に首を突っこんでいることがしばしばだ。

 少し後ろめたい気持ちでもじもじと答えると、玄雷はまた愉快そうに笑って言った。


「本がお好きなんですな」

「ええ、はい、まあ……」

「いいことです。司書なのですから」

「はい……」

「なんです、下を向くことはない。自分の心にもっと自信をお持ちなさい」

「は、はい!」


 思わず背筋を伸ばして答えた。

 威圧的ではないのに、玄雷の言葉には力がある。


「貴女が本の内容を熟知していたからこそ、冥渠という宦官がシラを切り通すのを防げたのではありませんか」

「え……?」


 どうしてそのことを、と思うが、伯言の友人なら、今回の事件の顛末を聞いているのだろう。


「殺人は言うまでもなく、密売も大きな罪。貴女の知識でそれを食い止めたのですから、司書として大役を果たしたということ」

「はい……!」

「これからも、本を愛する心を大切に」


 玄雷の温かな笑みにただただ頷いていると、伯言が後ろから声をかけてきた。


「花音、あんたはクビじゃないし新しい司書もここにはいないの。ということは昨日分の仕事が溜まっているってこと。掃除も配架も二日分。とりあえず、奥から掃除しながら配架をちゃちゃっとやってちょうだい!」


 どどーんと山積みになった配架本をみて、花音はげっそりする。


「伯言様、昨日やっておいてくれなかったんですか?!」

「つべこべ言わない! 時間がもったいないわよ!」


(この鬼上司!!)と心の中で叫ぶが、たしかに時間はもったいない。掃除しながら配架というのは、腹立たしいが良い案だ。


「はいはいただいま」

「はい、は一回っていつも言ってるでしょ!」

「はい!」


 花音はどすどすと床を踏みならして、掃除用具を抱える。

 高窓を開けると、少し冷気を増した秋風が入ってくる。爽やかだ。

「よしっ、今日もがんばらなくちゃね!」

 袖にたすきをかけて、花音は配架本の荷台をよっこらしょと動かした。




――その花音の背中にじっと視線を注いでいた玄雷は、伯言に続いてそっと事務室に入る。

 控えていた伯言が、静かに事務室の扉を閉めた。




「そなたの話通りの娘だな。くるくると表情が変わる。子猫のようでおもしろい」

「お気に召しましたか」


 玄雷は低く笑う。


「この混乱した後宮で嵐の目になってくれそうだ。今回も、あの娘の動きがもう少し遅いようなら余が動くところであった。そうなれば袁家との接触は避けられず、立太子を先延ばしにしている件を話す場を設けなくてはならない。あの娘は、いい塩梅でそれを遠ざけてくれた。やはりそなたの人材を見抜く目に狂いはないは、伯言」

「恐れ入ります。時に、冥渠と欣明の処断についてですが」

「うむ」

「冥渠は殺人の罪にて死罪、また密売に関わった冥渠配下の暗赫の残党は龍泉を追放、欣明は西の離宮に追放、欣明の兄で函谷県鉱泉の太監守・欣蓋については、袁家にその身柄を委ねる。――これが、藍悠様と紅壮様が下された処断です」

「ふん、追放か。生ぬるいな」

「暗赫の残党はもはや主導者を失って行動力はなく、西の離宮は入れば廃人になると言われる幽閉場所。妥当なところかと」

「まあ、そうだな。恨みをかうような処断は、余がしてきたことだけで充分だしな」

「陛下……」


 玄雷は眼鏡を外した。

 現れた紫色の鋭い双眸が伯言を見据える。


「もう少し時を稼ぎたい。立太子を先送りにする時間を。わしのひよっこたちがもう少し互いに協力し合える環境を作る時間を」

「御意」

「そのために、白花音の存在は必要不可欠だが……これは予想以上におもしろくなりそうだ」


 笑いをこらえている長年の主を見て、伯言は呆れたように言う。


「笑いごとではない要素もございますよ。藍悠様も紅壮様も、本気で花音にご執心なようですから」

「ほう? まあ、よいではないか。司書女官は官職だが、官職にある者を妃にしてはならぬわけではない」

「それは、そうですが――」

「同じ女人を好くとは良い傾向だ。やはり根は仲が良いのだな、あ奴らは。それにしても、ああいうのが好みなのか、あ奴らは。余の好みとはちと違うな。余はもっとこう、落ち着いた所作でありながら肉感的な女人がよいのだが」


――いえ、陛下の好みは聞いてません。ていうか、ここは深刻に頭を痛める場面では? 息子のお妃問題ですよ?

 というツッコミを、伯言は寸前で呑みこんだ。


 この主の考えることは、常人には理解不能だから。


 そして、その理解不能な思考が、かつて混乱していた政を綺麗に治めたことも、伯言は知っているからだ。





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