第三十四話 麗人と秋桜


※ 百合要素多めです。苦手な方はお気をつけください。



 私を呼ぶ声が聞こえる。


 どんなに周囲が騒がしくても、あの御方の声だけは私に届く。

 あの爽やかな笑顔にお会いできただけで充分に幸せなはずなのに、欲張りな私は願ってしまう。


 いつも、あの御方が私のそばにいてくれたらいいのに。

 そばにいて、手を握ってくれたらいいのに。


 私の想いが、あの御方に届けばいいのに。


 そんな夢物語を願ってしまうのは、ここが後宮という華やかで残酷な場所だからかもしれない――。





「……り、璃莉!」

 覚醒した意識が捉えた視界に、璃莉は戸惑う。

(これは、夢?)

 そばに涼霞がいた。璃莉に寄り添い、しっかりと手を握っている。

「涼霞様」

「動いてはいけない。傷口が開くといけないから」


 言われて思い出す。


 冥渠という宦官が短刀を持ったのが見えた瞬間、とっさに身を乗り出していた。


 熱い、と思った瞬間、力が入らなくなったこと。

 そして視界が真っ暗になる間際、涼霞が無事でありますように、と思ったこと。


「ここは……」

「太医署の病棟だ。怪我したのが病棟でよかった。処置を早くしてもらえた」


 璃莉を気遣って、冗談めかして行ってくれる涼霞の優しさが胸にしみる。


「傷もちょうど帯紐の場所だったみたいで、刀傷にしては浅いから治りも早いだろうと医官が言っていた。安心して」

「涼霞様は? 涼霞様はお怪我は」

「私はだいじょうぶ。白司書も無事だ。ただし、彼女は冥渠に嗅がされた薬のせいで倒れてしまったので、南梓と一緒に別の場所で処置を受けている。二人とも命に別状はないそうだよ」

「そう、でしたか……よかった……花音ちゃんも南梓も無事で……」


 璃莉は包帯姿の南梓を思い出して胸が痛んだ。


「私……南梓に問いただそうとしてここへ来たんです。南梓はもしかしたら、襲った人物を見たかもしれないって。南梓は怪我をしたばかりで大変なのに、私ったらなんてひどい……」

「璃莉は、犯人が私だと思ったのだろう?」

「ち、ちがいます! 涼霞様が犯人だなんて、そんなはずは! ただ、ただ私――」

「私が誰かに脅されているとか、困った状況に追い詰められていると思ったんじゃない? 私を助けようとして、それで確かめようとしたんでしょう?」

「…………」


 さすがは涼霞だ。すべてお見通しなのだろう。

 端整な顔が、ふわり、と笑んだ。


「ありがとう璃莉。だいじょうぶ、私は蘇奈や南梓を襲ったりはしてないし、玉の密売もしていない。ただ……それらを未然に防げる立場にあったのに、見て見ぬふりをしていたのは私の落ち度だ。実家からの指示を守ろうとしたあまり、おかしいと思いながら行動が遅れた。それについては、私には責任がある」

「涼霞様の、御実家の……?」


 涼霞が、真剣な眼差しを璃莉に向けた。璃莉の手を握る力が強くなる。


「私は、袁家と実家の取り決めに従って、近く嫁にいくことが決まっている。だから後宮で粗相のないようにおとなしくしていろ、と実家から言われているんだ」


 璃莉は息を呑んだ。

「涼霞様が、お嫁に」

「うん。こんな元・武官の無骨者でもぜひ嫁にと言ってくれる家があるんだから、袁家とお相手に感謝しろと両親に言われたよ」

「そ、そんな……涼霞様なら、引く手あまたですわ。聡明で、お優しくて、お美しくて……」

「私が憧れる璃莉にそんなことを言ってもらえるのは、うれしいね」

「あ、憧れ?! そんな、私が涼霞様に憧れているのですわ」

「たおやかで、可愛らしくて、テキパキと家事ができて……私にはない物を、私が憧れてやまないものをすべて璃莉は持っている。もっと自信を持って」

「涼霞様……」


 憧れの想い人にこんな間近でうれしい言葉をかけてもらい、微笑んでもらえている。

 手から涼霞の体温が伝わってきて、鼓動が高まった。


 所在なくて部屋を見回せば、小さな部屋には誰もいない。

 寝台の脇には水差や盥、手拭などが置いてある。どう考えても涼霞が璃莉を介抱していた状況だ。

 時間の流れがわからないが、窓からの西日が濃いということは、半日は経っているだろう。


「す、すみません、私などのために涼霞様の手を煩わせてしまって……あの、私はもう一人でも大丈夫なので、涼霞様は凛冬殿へお戻りに――」

「私が付き添いを申し出たんだ」


 璃莉の言葉を涼霞がさえぎるように言った。


「だから気にしなくていい」

「そんな、でも」

「璃莉と一緒にいたいんだ。大事に想っている人が苦しんでいるのにじっとしてなんかいられないでしょう?」


 璃莉は信じられない思いで涼霞を見上げた。聞き間違い? それとも。


「これは夢……?」


 涼霞がくすり、と笑う。


「夢じゃない。璃莉は私にとって、特別なんだ。私は璃莉のことが好きだよ」

「涼霞様……」

「本当は、璃莉に伝えずに後宮を去ろうと思っていた。でも、やっぱり、伝えようと思った。璃莉には迷惑かもしれないけれど……ごめん」

「迷惑なんてっ……」


 璃莉は顔が熱くなるのを感じた。つい身体が動き、激痛に顔をしかめる。


「ほらほら、動いてはいけないよ」


 涼霞が布団を直してくれる。その手がそのまま、そっと璃莉の頬に触れる。



「璃莉も私と同じ気持ちだと思っていい?」

 璃莉は目を見開き、それからそっと頷いた。

「私もずっと、涼霞様をお慕いしておりました……」


 言葉が終わらないうちに、そっと涼霞の顔が近付いてくる。


「本当は思いっきり抱きしめたいけど」


 そう言って、涼霞は自分の頬を璃莉の頬にくっつけた。

 涼霞の手と頬に包まれて、璃莉は怪我の痛みも忘れてしまうほどに胸が甘く震えた。



 ここは後宮、華やかで残酷な場所。

 それでも。

 後宮の片隅でひっそりと咲く秋桜コスモスのような女官の夢物語が、こうして叶うこともある。



 その奇跡と喜びに包まれながら、璃莉は自分の頬にある愛しい人の手に、自分の手をそっと重ねた。



 




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