第三十六話 月見の誘いと想いの刺繍



「そっか、それは大変だったね」

 陽玉が心底同情したように眉を寄せた。


 元・暗赫の武官が、凛冬殿の荷の玉を密売していたことを蘇奈が知ってしまい、殺された。

 現場には玉の選別に使ったらしい華月堂の本が落ちていたことから花音が疑われ、汚名返上のために事件を調べていたところ、犯人の武官に殺されかけたが、事件は解決した。


――陽玉には、そのように話した。


「花音が無事だったのはよかったけど……蘇奈は可哀そうだったね」

「そうだよね……」


 蘇奈のことは、本当に心から悔やまれた。


「でも、花音が無事なのは本当によかったよ。もしかして、花音って華奢に見えて素手で戦えたりするの?」

「まさか! 助けてもらったんだよ!」

「うわあ、その人すごい勇気あるねえ。凶悪な殺人犯から花音を救ってくれるなんて……誰? やっぱり内侍省の宦官?」

「う、うーん……宦官っていうか……」


 花音は曖昧な返事をする。笑みを含んだ端麗な姿が脳裏をかすめた。


「宦官って、けっこう綺麗な人いるじゃない? 後宮では宦官と恋に落ちる女官も少なくないっていうし……ねね、その人どんな人? かっこよかった?」

「え?! えーと」

 

 幻だと思った、ずっと会いたかった人。

 なんてことは、陽玉にも言えない。


「ちょっとお、花音あやしいな。その宦官のこと本気で好きになっちゃったとか?」

「ま、まさか!」

「ほんとう?」

「仕事忙しいから恋してるヒマなんかないよ!」

「あやしいなー」


 そのとき、厨から陽玉を呼ぶ声がした。


「いけない、竈番交代するんだった! ほんと、仕事が忙しくて恋なんかしてるヒマないよね! 本の配達、ありがとね!」


 陽玉は急いで厨の中へ戻っていった。


「そうだよ、恋なんかしてるヒマなんて……ないのに」


 司書としての仕事ももっとできるようになりたい。華月堂の本をもっと読みたい。

 それなのに、頭の隅に、紅の顔がちらついて離れない。


「もうっ、しっかりしろあたし」


 自分を叱咤しながら華月堂に戻ってくる。



「伯言様、点心盛り合わせお待たせいたしました――って、えええ?!」


 事務室の長椅子には、伯言ともう一人、紺色の袍姿が。


「藍悠様?!」

 藍悠は立ち上がるなり、花音を思いきり抱き締めた。


「ちょ、あの藍悠様」

「花音! よかった無事で……!」


 気品ある香の薫りに頭がクラクラする。

 花音がもがいて――といっても、ほとんど抵抗にもなっていなかったが――いると、こほんと小さな咳払いがした。


「お取込み中恐れ入ります殿下、私と(花音の)昼食がつぶれてしまいますので殿下、ほんの少ぉしだけ花音を解放していただけますでしょうか殿下」


 伯言が慇懃に申し出ると、藍悠が不満げに花音を放した。


「ずっと会えていなかったのに妙な薬を嗅がされた倒れたなんて言ったら心配するに決まっているだろう。これくらいいいじゃないか」

「もちろんでございます。昼食を受け取りましたら即、花音はお返ししますので、はい」

「はい、ってちょっと伯言様?!」


 伯言は点心盛り合わせの籠を受け取ると、花音の背中をぽん、と押した。


「私は先に昼食を摂る。花音、殿下を庭院にわにご案内してさしあげなさいっ」

「は?!」


 そんなきりりとした真顔で言われても! ていうか華月堂ここの庭院なんて案内するほどのシロモノじゃないですよね?!


「行こう、花音」

 藍悠に優しく、しかし強く手を取られて、花音はそのまま外へ出る。


 澄んだ青空に、筋を引いたような雲が見える。ときおり、鳥のさえずりがどこからか聞こえてきた。


「すっかり秋色の空ですね」


 花音は空を見上げ、大きく息を吸いこんだ。


「秋といえば、月の宴だな。花音、次の満月は一緒に月を見よう」

「え?」

「七夕はフラれたけど、次こそは華月堂に来てくれるよね?」

「え、えーと……」

「うんわかってる、伯言に許可取ればいいんだよね?」


 いやそうじゃなくて!


「あのですね、藍悠様」

「次の満月はあと五日後くらいか……そういえば、姜将軍が後宮を発つのもその頃だったな」

「えっ、涼……姜将軍、荷を取りに函谷県へお戻りになるんですか?」

「いや。姜将軍は、袁家の輸送長を辞したらしい」


 涼霞は、輸送長の任に就いていながら密売に気付けなかった責任を取るため任を辞する、と袁家に申し出たらしい。


 真面目で誠実な涼霞らしい、と花音は思ったが。


「でも……涼霞様……いえ姜将軍は、何も悪くないと思うんですが」

 藍悠が頷く。

「そうなんだ。今回の件は姜将軍にはまったくとがはないし、姜将軍の仕事ぶりを買っていた袁家も止めたらしいんだけどね。姜将軍は聞かなかったらしい。自分が運んだ荷が密売されていたのに責任がないなんてことはない、これでは嫁入り先にも申しわけないと言ってね」


「え?! 姜将軍、お嫁にいくんですか?!」

「そうらしいんだ。姜家には主筋に当たる袁家の紹介もあって、だいぶ前に縁談を決めていたらしいよ」

「そ、そうなんですか……」


 璃莉は知っているのだろうか。

 璃莉の怪我は浅かったらしいが刃傷ということもあり、まだ太医署の病棟にいると聞いていた。



「どうしても姜将軍が引かないので、袁家も折れてね。嫁入りまで実家で花嫁修業をする期間にせよ、武芸でなく家事に精を出すようにと、袁鵬は笑って姜将軍に申し渡したらしい」

「ええと……姜将軍が出発されるのは、五日後なんですね?」

「確かそうだったと記憶しているよ」

「すみません藍悠様! ちょっと急用を思い出しました!!」

「花音?!」


 花音は藍悠の手をやんわり解くと、猛烈に走り始めた。





 小さな部屋の寝台で、璃莉は身体を起こしていた。

「璃莉さん!」

 息を切らして入ってきた花音を見て、璃莉が目を丸くする。


「花音ちゃん?! どうしたの?」

「璃莉さん、涼霞様が」

「涼霞様がどうしたの?」

「後宮を発つって……袁家の輸送長をお辞めになったって」

「知ってるわ」

「そうですか、知ってますか……って、え?! 知ってたんですか?!」


 璃莉は寂しげに頷いた。


「涼霞様から聞いたわ」

「そ、そうでしたか……」


 冷静になってみれば、怪我人の部屋にこんなふうに駆けこむのは失礼だったかもしれない。


「ごめんなさい、あたし、余計なことを」

「ううん、そんなことない。ありがとう」


 にっこりと、たおやかな秋桜のように璃莉は微笑む。


「花音ちゃん、私の気持ちに気付いていたのね。だから教えにきてくれたんでしょう? うれしいわ」

「いえ、あたしはそんな」

「……おかしいわよね」


 璃莉がぽつりと呟く。

 何が、とは言わない。

 けれど璃莉の言いたいことは、花音にもわかっている。


「そんなことないです! 人が人を想う気持ちにおかしいことなんかありません!」

 花音は両手を握りしめた。

「『友愛の書』っていう本を御存じですか? その本には喜明という人が出てきて、これは男性なんですけれど、幼馴染の女性を想っているけれど同じ学舎の男性が気になるって告白をしていてですね」


 力説する花音に、璃莉はぷっと吹き出した。


「花音ちゃんて、本の話するときは人が変わるわよね」

「えっ、そ、そうでしょうか」

「ありがとう。――あのね、今、刺繡をしていたの」


 見れば、身体を起こした璃莉の膝には刺繍の道具が広がっていて、白い手拭いっぱいに薄桃色の刺繍が施してある。


「わあ、秋桜ですね? きれい!」

「ふふ、ありがとう。これを、涼霞様の結婚のお祝いに贈ろうと思っているのよ」


 花音はハッとした。そうか。涼霞が嫁入りすることも璃莉は知っているのだ。


「璃莉さん、あの」


 何か言わなければと思い、けれども花音は言葉を呑みこんだ。


 刺繍針を動かす璃莉の瞳は真剣で澄んでいて。

 ただ一心に、刺繍に想いをこめている。

 たとえ涼霞がお嫁にいってしまうとしても、璃莉の気持ちは変わらないのだろう。

 いや、璃莉もいつしか、お嫁にいく日がくる。

 それでも、涼霞への純粋な想いが消えることはない。

 人を心から想った記憶は、ずっと消えることはない。

 美しいまま、この刺繍のように。


 ひたむきで強い璃莉の姿に、花音は心を打たれた。


「花音ちゃん、お願いがあるの。この手拭が完成したら、涼霞様に届けてくれないかしら?」

「え、でも」

「涼霞様は出発の準備がお忙しくて、もうここへは来られないと思うの。私も、もう少し安静と言われていて……。誰かにお届けをお願いしたいと思っていたの。花音ちゃんなら安心してお願いできるわ」

「そういうことなら……あたしでお役に立てるならもちろん! お届けします! 任せてください!」


 花音が胸をたたくと、璃莉はうれしそうに微笑んだ。










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