第三十七話 消えたままの『宝玉真贋図譜』は何処へ?


 凛冬殿での事件の決着話は、瞬く間に後宮を走り抜けた。


「やっぱり蘇奈そなは自死じゃなくて殺されたんですって」

「なんでも内侍省の宦官に殺されたそうよ」

「そうそう、元・暗赫あんかくの悪辣な武官で、凛冬殿に届く荷を密かに横領して後宮や皇城で売って金儲けしていたとか」

「蘇奈はそれを知ってしまって、殺されたらしいわ。南梓なんしが襲われたのも、蘇奈の友人だから何か知っているものと思われてのことだって」

「まあおそろしい。でも凛冬殿の荷だったら、冬妃様は……」

「あら、もちろん冬妃様は何もご存じなかったのよ。凛冬殿の荷を悪辣武官に横流ししていたのは欣明きんめいっていう女官次官よ。ほら、凛冬殿の子たちが嫌っていた、変わった髪型の」

「ああ、あの方ね。蛇がたくさんくっついているような、おかしな髪型」

「そうそう。あの方、西の離宮送りになったらしいわよ」

「うわ、気の毒。後宮では洗穢寮せんえりょうと西の離宮にだけは送られたくないものね」


――華月堂の閲覧空間の卓子を囲んで女官たちがおしゃべりしているのが、配架をしている花音の耳にも入ってくる。


(よかった、蘇奈さんのサボり魔疑惑が晴れて)


 蘇奈がどうしてあの時あの場所にいたのか、今となっては謎のままだが、冥渠めいきょが蘇奈を殺したことを自供したので、蘇奈も浮かばれよう。


(そういえば)


 蘇奈の殺害現場に『宝玉真贋図譜ほうぎょくしんがんずふ』を故意に落としていったと、冥渠は白状したという。


(『宝玉真贋図譜』はどこへいったのかしら)


 華月堂には戻ってきていない。

 あの本は凛冬殿の女官にだけではなく人気の本だったので、早く本棚に戻したいのだが。


「伯言様、『宝玉真贋図譜』は今どこにあるんでしょうか」

「え? なんですって?」


 黄色い声を出す女官たちに囲まれて何やら本の蘊蓄を垂れていた伯言がぞんざいに返事をする。


「『宝玉真贋図譜』? うーん、姜殿のところかも? 無いなら見つけといてね。お願いよ」

「……はいはい」


 花音は大きく溜息を吐きそうになって、ハッとした。


「そっか! 姜涼霞様! 凛冬殿!」


 訪ねる口実ができた!

 花音は、伯言がなんといおうと午後一で凛冬殿へ行くことにした。





「あら、白司書ですわ」


 玄関で花を整えていた女官たちがにこやかに話しかけてきた。


「南梓も璃莉も、まだ太医署の病棟よ」

「あ、いいえ、今日は涼霞様に御用があって」


 足蹴にされるかと思いきや、丁寧に先導の女官まで涼霞の部屋へついてきてくれる。よく見れば、この前の騒動のときに花音を突き飛ばした女官だ。しきりに花音に愛想笑いを向けてくる。


(変われば変わるものだなぁ)

 後宮の女官たちの心は秋空よりもコロコロと急速に変わるものだ。

 回廊から抜けるような青空を見上げながら、そんなことを考えていると。


「やあ、白司書じゃないですか」


 声にハッとすれば、涼霞が部屋の扉を大きく開けて、大きな行李をいくつも運び出していた。


「涼霞様、そのようなことは後ほど宦官に頼みますわ。涼霞様のお手が汚れてしまいます」

「いいんだ。私は力持ちだしね。時間もある」

「まあ、涼霞様ったら本当になんて凛々しくて麗しい……」


 お茶をお持ちしますわ、と頬を赤らめて女官は立ち去った。


「やっぱり涼霞様は人気者ですね。きっとみんな、涼霞様がお発ちになることを残念がっていることでしょう」

「こんな私のことを惜しんでくれる人たちがいるなんて、ありがたい話だね」


 相変わらず爽やかな笑顔で謙虚なことを言う涼霞は、花音の目から見ても素敵な人物だ。それはなんというか、女性として、人として。

 こういう感情は、きっと男性に対しては抱かない。

 煌めいて切ない、憧れのようなもの。

 もちろん、璃莉のような想いではないけれど。


「今日はあたし、お遣いで来たんです」

 花音は抱えてきた平包をそっと開いた。


「……秋桜」


 平包の中に満開の秋桜が現れたような手拭をそっと手にとって、涼霞は感嘆の声を上げた。


「素晴らしい刺繍だね。白司書にこんな特技があったなんて」

「ち、ちがいます! あたし家事力ゼロですから! 刺繍なんてやったこともないですしたぶんできませんし!」

 自慢も力説もすべきことではないが、つい叫んでしまう。

「え……じゃあ」

「璃莉さんです。璃莉さんが、これを涼霞様に届けてほしいって。結婚のお祝いにって」



 涼霞の動きが止まる。

 手に持った刺繍をじっと見つめ、長い睫毛がまたたいた。

 何かをこらえるような表情が、ゆっくりと笑顔に変わる。


「そうですか。璃莉が、これを私に」

「はい。道中お気をつけて、と言っていましたよ」


 手拭の間には、手紙も入っているはずだ。

 涼霞はきっと、道中その手紙を何度も読み返すだろう。


「璃莉さん、だいぶ傷もよくなって、あと半月もすれば凛冬殿に戻ってこられるそうですよ」

「そうか……それはよかった。本当に、よかった」


 手拭を手にした涼霞の双眸にきらりと光るものがある。そのまま凛と微笑んで、美しい光の筋をぬぐわずに涼霞は花音の手を取った。


「短い間だったけれど、白司書にお会いできて私は幸運でした。怪しげな行動をしている私を璃莉がかばっていると知っても、白司書は冷静に真実を見極めようとしてくれた。そのせいで御自身の立場が危うくなってしまったというのに……」

「そ、そんなことは! あたしはただ消えた本を追っていただけで」

「その本への情熱が勇気ある行動につながって、それが私たちを助けてくれたのですよ。白司書がいなかったら冥渠を追い詰めることはできなかったし、蘇奈も浮かばれなかった。南梓も璃莉も、おそらく私も、命が危なかった。恩人です、貴女は」


 普段、鬼上司にコケにされているので、こんなに褒められるとかえって気恥ずかしくなってしまう。


「それに、白司書がいなかったら……こうして、璃莉からの贈り物を嬉しい気持ちで手に取れなかったかもしれません」


 涼霞は嬉しそうに、手拭の秋桜をそっと撫でた。


「届けてくださって、ありがとうございます。ずっと大事にすると、璃莉に伝えていただけませんか」

「は……はい! もちろん! 必ず伝えます!」


 やはり二人は気持ちが通じ合っていたんだ。

 涼霞様も、璃莉のことを深く想っているんだ。


 そのことを目の当たりにできて、花音は幸せのおすそ分けをもらったようにほっこりと温かい気持ちになったのだが。


「あ! もうっ、せっかく夢心地だったのに現実を思い出してしまったわあの鬼上司め……」

「?」

「涼霞様、すみません……つかぬことお聞きしますが、『宝玉真贋図譜』は涼霞様がお持ちですか?」





「華月堂へ戻ってるぅ?」

「はい。涼霞様が、そのように」


 確かに内侍省から『宝玉真贋図譜』を持ち去ったのは涼霞だが、涼霞の部屋に隠してあった『宝玉真贋図譜』を冥渠が盗んだらしい。

 事件後、冥渠を取り調べている御史台で尋ねると「華月堂へ戻された」と返答があったという。


「変ねえ。戻ってきてないけど」

「そうですよね」


 伯言も花音も、書架や配架の荷台などをすべて確認したが、『宝玉真贋図譜』は見当たらない。


「探すと見つからなくて、ひょんなときに出てくる本だから。きっと近いうちにひょんと見つかるんじゃないかしらねえ」


 伯言様またテキトーなことを……と思ったが。

 まるで予言者のように、伯言の言葉は当たったのだった。

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