第三十九話 華月堂での月見では②


 紫色の瞳が射貫くように花音を見上げていて、その勢いに気圧されて花音は思わず謝った。


「ご、ごめん! ごめんなさい!」

(こ、こわい……!)

 神龍と同じだという紫色の瞳には凄みがある。

(なんとか怒りを解いてもらわなくては……!)

「オレに悪いと思っているな?」

「もももちろんですっ。全身全霊で謝りますっ」

「よし。じゃあオレが何をしても怒らないな?」

「もちろんですっ、って……え?」


 言い終わらないうちに強く、しかし優しい力で引き寄せられて、花音は紅の膝の上にいた。

「この前の続き」


 何が、と問う間もなくそっと唇をふさがれた。


 花音はあわてて身をよじる。


「だ、だだだだめだってば」

「なんで。何してもいいって言っただろ」

「だって! 紅は冬妃様と……」


 朝まで寝所に、とごにょごにょ言っていると、一瞬黙った紅がぷっと笑った。


「な、なにがおかしいの!」

「さっきの不眠の話だろ。おまえ、推理は冴えてるくせにヘンなところでボケてるっていうか想像力がたくましいっていうか」

「だって、不眠って知ってるって……つ、つまり、そ、そそそいうことであって……」

「みだらな想像をしているところを悪いが、オレは貴妃たちとはいたって清らかな関係だからな」

「なっ、み、みだらって!」

「冬妃が不眠じゃないって言いきったのは、会ったときに本人が『後宮にきてから食べ物が美味しいしよく眠れるから太って困る』と話していたからだ。実際、冬妃は元気そうだし」


 返す言葉もなく花音は口をぱくぱくさせる。

 紅がニッと笑った。


「妬いた?」

「なっ、そ、そんな恐れ多いわ、冬妃様に妬くなんてとんでもない!」

「でも妬いたよな?」

「~~~~っ」


 怒りたいやら恥ずかしいやら、もう何がなんだかわからない。火照った顔でやっぱり口をぱくぱくさせていると、大きな手のひらがそっと花音の頬を包んだ。


「妬く必要はない。オレのすべては花音だけに向いてるから」

「…………っ」


 身体の力が抜けて、再び抱き寄せられる。

 紅の胸の中に落ちるとすぐに口づけられ、幾度も優しく口づけられる。


「ん……」


 息が苦しくなって紅の胸元に思わず触れる。

 硬い感触に、花音はハッとなった。

 反射的に紅の懐に手が伸びて、その本を取り出していた。


「自分からオレの衣に手を入れるなんて積極的だな」

「そ、そそそそうじゃないでしょうがっ!! なんで紅がこれを持ってるの?!」


 花音の手に握られているのは『宝玉真贋図譜』だった。


「なんでって、返しにきたから」

「へ?」

「御史台から回収してきたんだ。この本は何も悪くないし、直接事件には関係ない。華月堂に返しておくから渡せって言ったら、すぐに渡してくれたぞ」


 花音は顔にタテ線が入った。


「それは脅しでは……皇子殿下にそう言われたら、ふつう渡すよね?」

「そんなことはない。御史台の長官は氷の天秤という異名を持つんだぞ。どんな権力にも屈さない、公正な男だ」

「はあ……そうですか」


 探しても見つからず、ひょんなところから。


「伯言様、予言者だわ」

「は?」

「な、なんでもないわ。とにかくよかった、戻ってきてくれて」


 久しぶりに手にした『宝玉真贋図譜』をぎゅっと抱きしめる。

「やっと戻ってきたんだから、すぐに本棚に戻してあげなきゃね」


 瞬時に司書として本を放置できない気持ちが湧き上がり、花音はぴょん、と紅の膝から下りると、『宝玉真贋図譜』の棚へ走る。


「おい花音!」

「そうだ、あたし配架が残っていたのよ。ちょうどいいから紅も手伝ってくれない?」

「おまえな……オレは一応、皇子なんだが」


 紅の呟きは台車を転がしていく花音には聞こえなかったようだ。


「はあ……まあ、いっか」

 紅は肩をすくめつつも、楽しそうに台車から本を取る。


「お、この本懐かしいな。子どものころ、華月堂ここでよく読んだ」

「え、どれどれ……『五国航海記』?! これってすごく難解な航海術とか用語が出てくる専門書よ?! こんな本読むって本の虫すぎる! どんな子どもよ!」

「おまえに言われたくないぞ! 面白いものは面白いんだ! 見ろ、この西虎国との間にある渦を渡るときの章なんてなあ」

「あ! あたしもこの章好き。そうそう、この章って、著者の実際の体験を交えているんですって」

「え?! そうなのか?! どのへんが?」

「えーっとねえ……」



 頁をめくる音と二人の話し声が、秋の虫の音と共に華月堂に響く。

 待宵月まちよいづきの明るい光が、本を間に話しこむ二人を静かに照らしていた。



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