第二十九話 皇子たち、解除。


 東宮、山紫殿。

 黒い袍姿の端麗な人影が、回廊を取次の間へと急いでいた。



「藍悠様、まだ朝議の途中です。終わるまでお待ちいただいては」

「朝議はあとで記録を読めばいい」

「ですが」

「伯言がわざわざ僕のところに遣いをよこしたということは、花音のことで何か火急なことが起きたということだ」


 主の言葉に飛燕は微かに溜息をつく。

 半分走っているかのように藍悠の足は速い。朝議用の黒い袍は動きにくいはずなのに、飛燕でさえ追いつくのが大変だ。

「やはり、白司書がからむと藍悠様はお人柄が変わってしまわれる……」

 先を行く主の背中を見ながら、飛燕はもう一度微かに息を吐いた。



「伯言!」

 取次の間に入るなり、藍悠は伯言へ歩み寄った。

「花音に何かあったのか? 飛燕の報告では、昨日また凛冬殿で女官が何者かに襲われたということだが」

「その通りです。そして、その犯人が花音だということになっております」

「なんだって?! そんなはずないだろう!」

「はい。完全な冤罪です。が、疑われても仕方ない状況になっておりまして。まったく、花音は大馬鹿……いえ、不注意でして」

「内侍省武官に、冥渠という者がいる。元・暗赫で、蠟蜂の側近だった者らしいのだが、その者が花音を取り調べたと聞いた。まさか……その者が『花草子』の一件の仕返しに花音を陥れようとしているなどということは、ないよね?」

「さすが藍悠様、お察しが速い。そのまさかです。どうやら冥渠殿が、凛冬殿に花音が犯人だと吹聴したようでして」

「罪無き者に罪を着せるとは言語道断! 今すぐにでも冥渠を呼びつけて――」

「藍悠様、少々お待ちを。今のところ、花音に不利な状況証拠しかないのです。。ですから、ちがう方向から冥渠殿に揺さぶりをかけてはいかがかと」

「ちがう方向?」

「はい、実は――」


 伯言の話を聞いて、藍悠は驚愕した。


「なんということだ……!」

「今お話したのは、あくまで私と花音の推測に過ぎません。でうがそれを裏付ける品が出てくれば、冥渠殿の動きを止めることができるかと」

「なるほど。内侍省の中を調べればいいんだね?」

「御意。ですが、こちらの動きを察知されてはなりません」

「わかっている。飛燕」


 傍に控えていた飛燕が、藍悠に近付いた。


「聞いていたな」

「はい」

「内侍省へ行ってくれるか」

「御命令とあらば。しかし……」


 珍しく言葉を濁した飛燕に、藍悠は首を傾げる。


「どうした?」

「いえ、その」

「飛燕殿は、立太子のことを御心配されているのでしょう」

 伯言が静かに言った。

「内侍省は藍悠様か紅壮様か立場を決めていない。加えて、花音を犯人にしたい冥渠殿にこちらの動きを察知されれば、お妃問題として足をすくわれかねない、ですな?」


 静かなツッコみに、飛燕は無言のままうつむく。伯言は重々しく頷いた。


「飛燕殿の立場を考えれば、もっともな御心配です」

「しかし、伯言。僕は――」

「ですが、この件を放置すれば、藍悠様と紅壮様が後宮の秩序を守れなかったという汚点として、大貴族が騒ぎ立てるでしょう」


 紅壮、という名に藍悠も飛燕も伯言を見た。


「それじゃあ」

「はい。もちろん、紅壮様も御一緒に動いていただくつもりです。諸刃の剣にならぬように」

「は? 諸刃の剣?」

「いえ、こちらのこと。まあとにかく、後宮の秩序を守るために殿下方が御一緒に動くのは、なんら不自然なことではありませんから」


 伯言はにっこりと微笑んだ。





 東宮、水明殿。


「――なるほど。話はわかった」


 紅壮は執務卓の上で両掌を組み、口元にあてている。

 だから、「またクソ藍悠と一緒ってのは気に食わないがな」という呟きはくぐもっていて、近くにいる伯言と柊の耳にしか届いていない。


「確かに、花音を救い、かつ、立太子問題に触れないためには、それが最善の方法だ。伯言はいつも計ったような時機に来るな」

「はい?」

「オレはとっくにしびれを切らしていて、もう少しで単独で動くところだったからな」

「正直申しまして、たいへん助かりました、伯言様」

 柊が低い声で礼を述べる。

「紅壮様は御自身や私が調べたことから、事件の容疑者を絞っておられたのです。私がお止めしても、東宮を飛び出しかねないところでした」

「ほう、それは柊殿も大変でしたね……」


 伯言は心の底から柊に同情し、ちょっぴり申しわけなく思う。

 飛燕といい、柊といい、花音が華月堂にきてからというもの、皇子たちが思うように護衛できなくなって苦労しているからだ。


「して紅壮様、容疑者とは?」

「蘇奈という女官の遺体の傍で、奇妙な匂いがした。香木とは違うと直感したから、調べてみたら、同じ匂いのする薬草を太医署で見つけた」


 紅壮は、執務卓の抽斗から小さな匣を取り出した。


「曼荼羅華という花だ。睡眠薬や、医官が患者の苦痛を和らげるために使う麻酔薬に使われる。が、これはかなり毒性が強い花でな。太医署でも厳重に扱っているし、扱える者も限られる。が、少し前、太医署へとある人物が訪ねてきて、極秘に曼荼羅華を分けてほしいと頼みこんだそうだ」

「分けたのですか? それは医官も罪に問われることですぞ」

「医官には、その件を不問に伏す代わりに、絶対他言無用だと申し渡してある。まあ、医官が逆らえなかったのも無理はない。なんでも、貴妃の不眠を解消したい、貴妃が不眠のままでは帝家の一大事だと泣きつかれたそうだ」


 伯言は大きな双眸をさらに大きく瞠った。


「それは、もしかして」

「ああ。容疑者は一人じゃないということさ」


 紅壮はニヤリと笑った。


「今回の事件は、ただの女官殺しじゃない。いろいろなことが水面下でつながっている。ある一つの目的に向かってな」








――その頃。



 凛冬殿の宝物庫の回廊で、濃紫襦裙姿の女官が苛立ちを隠しきれない様子で回廊を行ったり来たりしていた。


「ええい、どこじゃ! どこにいったのじゃ! あの本の中に入っておると思うておったに、見当たらぬ」

「本の中にはさんであったのは、私も覚えておりますが」


 回廊の下から、低い声が答える。一見、誰もいないように見えるが、回廊の下の草むらに黒い影が控えている。


「無いものは無いのじゃ! そなた、髪の中もちゃんと探したのであろうな?!」

「もちろんでございます。念入りに探すために、頂戴した薬を使わせていただいたのですから。髪の毛の中はもちろん、懐や巾着もすべて探しましたぞ」

「と、とにかく! あれが誰かの手に渡ればすべて終わりじゃ。なんとかせい!」


 女官はついに声を荒げた。草むらから、低い声がたしなめる。


「お静かに。ここはひと気が無いとはいえ、後宮の中にはどこに耳目があるかわからりませぬ」

「わかっておる!」

「落ち着かれませ。とりあえずは、華月堂の小娘にすべて被ってもらうことで時間が稼げておりますれば」

「悠長なことを言うな! 急ぐのじゃ! そなた、南梓に顔を見られたかもしれぬのであろう!」

「その件についても、すでに手を打ってありますぞ。頂戴した薬を再びお役に立てますれば、御安心を」


 その人物は、残忍な笑みを滲ませた。

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