第二話 今日も今日とて鬼上司


 羊の群れのような雲が、青空に広がっている。


 その青空に向かって、空と同じ色の袍をまとった男が、大きく、そしてムダに優雅に伸びをした。

「やっと少し涼しくなったわねえ」


 口調はともかく、黙っていれば『秋の青空と貴公子』と言えよう。

 長身に、深い二重の中性的な美貌は、いずれの貴公子、いや妃嬪と言ってもおかしくない。

 まさに一幅の絵のようなその男に、後ろからやってきた少女が低く呟いた。


「……伯言はくげん様、仕事してください」

「え? なんですって?」

「だから! 仕事してくださいっ! 虫干しの本を運んでくださいってんですよ!!」


 華月堂司書長官・ほう伯言はくげんは振り返る。


 そこには――腰から下は新人女官衣、腰から上は山積みの本になった、奇怪な生き物がいた。


「きゃああ! バケモノ! 本のバケモノだわぁ!」

「誰がバケモノですかっ! 早くこの山積みの本を受け取ってくださいってんですよ!!」


 伯言はひょい、と山積みの本を半分ほど受け取る。

 するとそこに、子猫のような愛らしい顔が現れた。


 大きな双眸は大粒の翡翠のようで、つんと摘んだような鼻や桜色の唇は、美人というより可愛らしい。

 ただ、今はその可愛らしい顔は、怒りに燃えた小鬼のようになっている。



 この華奢な小鬼……ではなく子猫のような少女が、華月堂の司書女官・はく花音かのんである。



「なあんだ、花音じゃない」

「なあんだ、じゃないですよっ……ってなんで本の山をあたしに返す?! 持っていってくれるべきでしょうここは!! 早く部屋に本を戻さないと、午後の開室時間になっちゃいますよ!」

「あらそれはたいへん。ほらほら花音、急いで急いで」

「伯言様もちょっとは急いでくださいってんですよっ!!」

「急いでるわよ、失礼ねえ」


 ひらひらと扇子を優美に操り華月堂へ向かう伯言は、一指ひとさしの舞いを舞っているようだ。

 爽やかな秋風と一体になったその動きは、思わず見惚れてしまうほど――が、しかし。


「運んでくださいっ! 本をっ! 舞っても本は運べませんからっ! えっ、ちょ、ちょっと!! 本気で一冊も運ばない気ですか……?! この鬼上司っ!!!」



 今日も今日とて、花音は高い秋空に向かって叫ぶ。



 すると、沈丁花の垣根の向こうから、賑やかな話し声と華やかなお仕着せの群れが近付いてくるのが見えた。


「いけない! 華月堂、午後の開室に間に合わなくなっちゃう!!」


 事務室でゆっくり茶を飲む鬼上司・伯言を横目に睨みつつ、花音は虫干しの本をひとりですべて、なんとか運び入れ。


「……華月堂、午後の開室時間です」


 ぜえぜえと肩で息をして幾何学模様の扉を開けると――


「早く『李氏物語』の続きを!」

「あたくしは『龍昇国神話集』を!」

「今日こそは『恋色星占大全』を!」


「ちょ待っ、あの、押さないで押さないで……ぐえっ」


 お目当ての本に向かってまっしぐらな女官の群れに押され、花音は扉と壁の間で押し花のようにペタンこになったのだった。





「し、しぬかと思った……」



 このところ、華月堂は連日、混んでいる。



 更衣こうい、七夕など、大きな行事が終わってひと段落した後宮では、女官たちにも少し時間の余裕ができているらしい。


 すっかりお馴染みになった後宮厨への本の配達も、華月堂がこのところ忙しいと知った尚食女官たちが、忙しい合間を縫っては本を返しに来てくれる。

 恐縮する花音に「またオススメの本を配達してくれたらそれでいいって」と花音の親友・陽玉はじめ、尚食女官たちが言ってくれるおかげで、本の配達もなんとか続けられている。


 入宮当初、花音が考案した華月堂の模様替えも功を奏したようだ。

 訪れる女官や宦官から、本が選びやすくなった、閲覧しやすくなったと評判がすこぶる良い。



 春にいた種が秋に美しく花開くように、がんばった仕事の成果が実感できるのは、ほんとうにうれしい。


――ますます司書女官の仕事をがんばらなくっちゃ。



 そんなことを思い、高窓から入る秋風に心地よく深呼吸する花音の前に、数人の女官たちが立った。

「すいません、『宝玉真贋図譜ほうぎょくしんがんずふ』を借りたいのですが」

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