藤の精

別宅から屋敷に向かう急行電車は、がらがらに空いてた。小豆色のシートに隣り合わせに座った陽子と夕は、ぽかぽかとした陽光に照らされ、次第に眠気を隠せなくなってくる。

 「藤さんがお屋敷に来たとき、夕さまはおいくつだったんですか?」

 うとうとと目を細めながらも、陽子が問う。

 そして、問うたっきり彼女は、がくん、と首を前へ倒し、完全に眠りに入ってしまった。 

 「……8歳だったよ。」

 彼女が眠ってしまったことは承知の上で、夕はそう呟いた。

 8歳。

 あのとき藤は15歳だったはずだから、父親は、息子と7つしか歳が違わない子供を連れ帰ってきたことになる。

 藤がどんな経緯で屋敷に迎え入れられたのか、夕は知らない。そこに幸福な経緯がないことをなんとなく察しているだけだ。

 15の少年が、親元を離れ、男妾として成金の家に売り飛ばされる。そこにはどうしたって、幸福な経緯など割り込みようがないだろう。

 夕が8歳だったあの日、満開の藤棚の下に、藤はじっと佇んでいた。

 藤色の衣と、色のごく薄い肌と髪。あれはさながら、藤の精だった。

 妖精がいる、と、幼い夕はお砂場セットを取り落とし、藤に見とれた。

 藤は困ったようにほんの少しだけ眉を寄せて微笑むと、膝を屈めて散らばったお砂場セットを拾ってくれた。

 その指先の透けるような白さと、藤色のマニュキュアで飾られた繊細な爪。

 よく覚えている。

 あのとき夕は、目の前の少年が、人ならざるものだと信じて疑わなかった。

 『どこから来たの?』

 どきどきしながら声を潜めた夕に、藤はお砂場セットを持たせてくれながら、あっちですよ、と、屋敷の奥の離れを指差した。

 夕は立ち入りを禁じられていた場所だった。

 あそこには藤の精がいたのか。だから僕は入っちゃいけなかったんだ。

 納得した夕は、お砂場セットを抱きかかえたまま、じっと藤の姿に見入った。

 こんなにうつくしいものが、人間ではまさかあるまい。

 こどもの夕には、それは確かな確信だった。

 一緒に遊ぼう、と、誘うこともできなかった。学校では、あの成金のこども、と遠巻きにされていて、遊び相手に飢えていたのに、それでも。

 藤は、一緒に遊びましょうか、と、腰をかがめて訊いてくれた。

 妖精にそんなことを言われるなんて想像もしていなかった夕が、もじもじしていると、藤棚の向こうから父親の声がした。

 「藤。」

 すると藤は、はっと頬でも打たれたように背筋を伸ばし、また今度遊びましょうね、と夕にいい置いて、藤棚の向こう側へ消えていった。

 あの妖精は、父親のもの。

 この屋敷にあるたくさんの骨董品や使用人と同じように、父のもの。

 幼いながらにそう推測した夕は、誰もいなくなった藤棚の下で、確かに父を恨んだ。


 

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