3
あなただけが、と、藤は凪いだ海によく似合う、静かな声で言った。
「あなただけが、私に会いに来ると言ってくださった。」
それを聞いて、夕は咳き込むように言葉を吐出した。
「でも、それから俺は、あんたを……、」
あんたを、避け、逃げた。
指先を焦がした欲望に怯え、あんたから目をそらし、逃げた。
本当に伝えなくてはいけない部分は、言葉にならなかった。
それでも藤は、その部分さえ理解したように、じわりと瞳を滲ませ、首を横に振った。
丹念に手入れをされた色素の薄い髪が、ふわりと広がって、すぐに素直に肩へと落ちた。
「本当は、死んでしまうつもりだったんです。……でも、あなたが会いに行くと言ってくださったことが忘れられなくて、ここまで来ました。」
会いに行く。
その、あまりに幼い約束を、藤は信じここまで来たのか。
そう思うと、夕の胸は後悔の念で押しつぶされそうになった。
あの幼かった日々、どうしてもっと藤に会いに行かなかったのか、
少しばかり成長した後、どうして藤から逃げたりしたのか。
ただ、自分は男が好きだと、認めるのが怖かっただけで。
「逃げよう。」
夕は、きつく握った藤の手を、駅の方へと引いた。
逃げ方なら知っている。陽子から教わったばかりだ。ただ、電車に乗って、知らない場所まで行けばいい。そうすれば多分、父の手のものも、藤と夕を見つけられはしない。
藤は、夕の手に逆らわなかった。引かれるままに、よろめくように歩を進める。
「……なぜ?」
ぽつん、と、藤が呟いた。その声は、夕には涙混じりに聞こえた。
この人を、また泣かせてしまった。
はっとして目をやると、しかし藤は泣いてはいなかった。その眼差しは不安定に揺れながら、それでも夕をまっすぐに見つめていた。
「なぜ、……なぜ、あなたは私と逃げるのですか?」
このときばかりは、夕も躊躇わなかった。答えはとっくに出ていた。それは、藤をはじめに見、藤の精だと勘違いした、幼い日から。
「あんたが好きだから。」
その言葉を聞いて、はじめて藤は、涙を流した。
右の頬に一滴、そして、少し間をおいて左の頬にも。
今度こそ、この人を泣かせてしまったな。
夕は両腕で藤を抱きしめた。
いつの間にか、背丈は夕のほうが幾分高くなっていた。あの頃、藤のほうがはるかに背が高かったのに。
随分遠回りをしていしまった。
そう思うと、夕まで泣けてきそうで、けれどそれではあまりに情けないので、夕はぎゅっと唇を結び、涙をこらえ、藤の背中を撫でていた。
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