あなただけが、と、藤は凪いだ海によく似合う、静かな声で言った。

 「あなただけが、私に会いに来ると言ってくださった。」

 それを聞いて、夕は咳き込むように言葉を吐出した。

 「でも、それから俺は、あんたを……、」

 あんたを、避け、逃げた。

 指先を焦がした欲望に怯え、あんたから目をそらし、逃げた。

 本当に伝えなくてはいけない部分は、言葉にならなかった。

 それでも藤は、その部分さえ理解したように、じわりと瞳を滲ませ、首を横に振った。

 丹念に手入れをされた色素の薄い髪が、ふわりと広がって、すぐに素直に肩へと落ちた。

 「本当は、死んでしまうつもりだったんです。……でも、あなたが会いに行くと言ってくださったことが忘れられなくて、ここまで来ました。」

 会いに行く。

 その、あまりに幼い約束を、藤は信じここまで来たのか。

 そう思うと、夕の胸は後悔の念で押しつぶされそうになった。

 あの幼かった日々、どうしてもっと藤に会いに行かなかったのか、

 少しばかり成長した後、どうして藤から逃げたりしたのか。

 ただ、自分は男が好きだと、認めるのが怖かっただけで。

 「逃げよう。」

 夕は、きつく握った藤の手を、駅の方へと引いた。

 逃げ方なら知っている。陽子から教わったばかりだ。ただ、電車に乗って、知らない場所まで行けばいい。そうすれば多分、父の手のものも、藤と夕を見つけられはしない。

 藤は、夕の手に逆らわなかった。引かれるままに、よろめくように歩を進める。

 「……なぜ?」 

 ぽつん、と、藤が呟いた。その声は、夕には涙混じりに聞こえた。

 この人を、また泣かせてしまった。

 はっとして目をやると、しかし藤は泣いてはいなかった。その眼差しは不安定に揺れながら、それでも夕をまっすぐに見つめていた。

 「なぜ、……なぜ、あなたは私と逃げるのですか?」

 このときばかりは、夕も躊躇わなかった。答えはとっくに出ていた。それは、藤をはじめに見、藤の精だと勘違いした、幼い日から。

 「あんたが好きだから。」

 その言葉を聞いて、はじめて藤は、涙を流した。

 右の頬に一滴、そして、少し間をおいて左の頬にも。

 今度こそ、この人を泣かせてしまったな。

 夕は両腕で藤を抱きしめた。

 いつの間にか、背丈は夕のほうが幾分高くなっていた。あの頃、藤のほうがはるかに背が高かったのに。

 随分遠回りをしていしまった。

 そう思うと、夕まで泣けてきそうで、けれどそれではあまりに情けないので、夕はぎゅっと唇を結び、涙をこらえ、藤の背中を撫でていた。

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