夕は藤の背中を撫でて立ち尽くした後、気持ちが落ち着くと、彼の手を引いて電車に乗った。

ボックス席の向かいどうしに座る。車内は空いていて、周囲に人影はなかった。

 なぜ。

 掠れた声で、藤が問うた。

 夕はなにも答えず、二人の間で繋いだまんまの手を、強く握り直した。

 しばらく窓の外を行きすぎる景色を眺めていると、幾分心持ちも楽になったので、夕は藤の色浅い双眸を見つめ返す。

 「終点までいこう。その後は、適当な電車かバスに乗り換えよう。」

 なぜ。

 また、藤は問うた。

 夕は答えないまま、藤の痩せすぎた左手を握りしめていた。

 なぜ。

 答えは決まっている。

 あんたを好きだから。もっと先まで行きたいから。あんたと、違う景色が見たいから。

 電車の中は、ちょっと暑いくらいに温められていた。夕はコートを脱ぎ、自分の隣の座席に置いた。

 藤も、藤の色に金糸銀糸で縫い取りをされた道行を脱ぐと、自分の隣の席に、きちんと畳んでおいた。

 そうすると、和服の重厚な服の線から、藤自身の華奢な体の線が透けて見えた。

 夕はその線を、心苦しくなりながらじっと見ていた。

 幼い日、じっと夢に見ていた藤の身体。

 それが、すぐ目の前にある。

 「夜になったら、どこかに宿を取ろう。」

 何気なく言ったつもりだった。

 それでも、勝手に喉が震えた。

 宿を取ることと、藤の肉体に触れること。イコールに考えていたわけではないが、身体はその分正直だった。

 藤に、どう思われているか。

 ぎくしゃくと彼の方へ目をやると、藤はじっと座ったまま、小さく頷いた。

 それは、初めて男に身体を許す処女のような仕草だった。10年以上も夕の父に体を売ってきた男の仕草とは思えないほど。

 「……いいのか。」

 ぽつりと、夕は呟いた。

 返事は、ないものと思っていた。ただ、まだ藤は父親に身体を縛られているのかと、確認だけがしたかったのだ。

 「かまいません。」

 藤は囁くように言い、コートの上においていた夕の手を握った

 夕は驚いて、一瞬その手を振り払いそうになった。

 嫌悪ではない。自分でもよくわからない感情に押されたのだ。

 藤は、夕のその一瞬の葛藤にさえ、気がついているようだった。彼は、切ないように眉を寄せた。

 夜になったら。

 夕は、そのとき確かに、夜を恐れた。

 自分は藤の体に触れられるのか。触れられたらどうなるのか。触れられなかったらどうなるのか。

 どちらについても、もうなにも考えたくはなかった。

 

 

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