夕は、藤との距離を詰められないまま、藤の微笑を見つめていた。

 藤は、すらりと椅子から立ち上がり、夕に向かって歩み寄ってきた。

 まだ待って、と言いたかった。

 まだ待って。あなたの側に立つ、心の準備ができていない。

 けれど夕は口をつぐんだままで、従って藤は足を止めることはなく、夕の目の前までやってきた。

 微笑の残滓は、まだ藤の白い頬や切れ長の目に、薄っすらと浮かんでいた。

 「本当に来てくださるとは、思いませんでした。」

 藤が、囁くように言った。

 彼の目線は夕の顔ではなく、夕が握りしめた千代紙の箱に固定されていた。だから夕は、辛うじてその場に立っていることができた。

 「……これ。」

 喉がギシギシ鳴って、言葉が牡蠣殻みたいにつっかえた。それでもなんとか夕は、藤にその小箱を差し出した。

 夕は、その箱を受け取ると、大切そうに胸に抱いた。

 「見つけてくださるとは、思いませんでした。」

 その箱を見つけたのは、実際のところ夕ではなかったけれど、それを説明することはできなかった。

 空気が足りないみたいに、上手く呼吸ができなくて。

 夕は、千代紙の箱を抱く藤の手に、自分の手を重ねた。

 お互いの手は、冷たかった。それでも、重なったところからそのまま溶けてしまいそうだと思った。

 夕の手は、震えていた。

 この人に触れていいのか、分からなくて。

 父の愛人であった、うつくしい人。

 幼い頃からの、遠すぎる憧れ。

本当なら指一本でも触れたらいけない人なのかもしれないのに、藤はその場から動かず、夕の手を振り払うこともなかった。

 それどころか、彼は千代紙の箱を袂に収めると、夕の手を握り返してくれた。

 指と指とを絡め、きつく。

 夕は、なにも言えないまま藤の目を見つめた。ようやく、彼の目を見ることができたのだ。藤の色を秘めた、あの眼差し。幼い日に魅せられた、麗人の双眸。

 「……俺を、待ってたんですか。」

 声は、勝手に掠れた。

 絞り出すようにしてなんとか口にできた台詞だった。本当だったら、その姿を認めた瞬間に問いかけたかった。

 すると藤は、ふわりとまた微笑んだ。

 「そうですよ。」

 あまりにもあっさり口にされた答え。

 夕は、その軽さにいっそ苛立った。

 「本当に?……子供の頃に、何回かしか会ったことのない、俺を?」

 そうですよ、と、藤はまた軽く頷いた。それは、答えるまでもなく、ごく当然のことを問われたみたいに。



 

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