2
夕は、藤との距離を詰められないまま、藤の微笑を見つめていた。
藤は、すらりと椅子から立ち上がり、夕に向かって歩み寄ってきた。
まだ待って、と言いたかった。
まだ待って。あなたの側に立つ、心の準備ができていない。
けれど夕は口をつぐんだままで、従って藤は足を止めることはなく、夕の目の前までやってきた。
微笑の残滓は、まだ藤の白い頬や切れ長の目に、薄っすらと浮かんでいた。
「本当に来てくださるとは、思いませんでした。」
藤が、囁くように言った。
彼の目線は夕の顔ではなく、夕が握りしめた千代紙の箱に固定されていた。だから夕は、辛うじてその場に立っていることができた。
「……これ。」
喉がギシギシ鳴って、言葉が牡蠣殻みたいにつっかえた。それでもなんとか夕は、藤にその小箱を差し出した。
夕は、その箱を受け取ると、大切そうに胸に抱いた。
「見つけてくださるとは、思いませんでした。」
その箱を見つけたのは、実際のところ夕ではなかったけれど、それを説明することはできなかった。
空気が足りないみたいに、上手く呼吸ができなくて。
夕は、千代紙の箱を抱く藤の手に、自分の手を重ねた。
お互いの手は、冷たかった。それでも、重なったところからそのまま溶けてしまいそうだと思った。
夕の手は、震えていた。
この人に触れていいのか、分からなくて。
父の愛人であった、うつくしい人。
幼い頃からの、遠すぎる憧れ。
本当なら指一本でも触れたらいけない人なのかもしれないのに、藤はその場から動かず、夕の手を振り払うこともなかった。
それどころか、彼は千代紙の箱を袂に収めると、夕の手を握り返してくれた。
指と指とを絡め、きつく。
夕は、なにも言えないまま藤の目を見つめた。ようやく、彼の目を見ることができたのだ。藤の色を秘めた、あの眼差し。幼い日に魅せられた、麗人の双眸。
「……俺を、待ってたんですか。」
声は、勝手に掠れた。
絞り出すようにしてなんとか口にできた台詞だった。本当だったら、その姿を認めた瞬間に問いかけたかった。
すると藤は、ふわりとまた微笑んだ。
「そうですよ。」
あまりにもあっさり口にされた答え。
夕は、その軽さにいっそ苛立った。
「本当に?……子供の頃に、何回かしか会ったことのない、俺を?」
そうですよ、と、藤はまた軽く頷いた。それは、答えるまでもなく、ごく当然のことを問われたみたいに。
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