バス

裏切られた子供。

 陽子が唇だけで復唱した。

 「……ああ、そうかもしれない。」

 ぽつん、と、彼女が言う。

 「私、夕さまのこと、なにかに似てるなって思ってたんですけど……。裏切られた子供、なのかもしれない。」

 夕は黙ったまま、どうしていいのか分からず、バス停の時刻表を覗き込んだ。

 陽子は怒りの色を沈め、ひっそりと夕の傍らに立った。

 「思い出したく、ないですか? なにも。」

 彼女はひどく優しい声をしていた。それは、それこそ裏切られ続けて泣けもしない子供を相手にするみたいに。

 夕はその優しさに、救われた気がした。自分の中にいる、裏切られた子供が。

 「……思い出したくは、ないよ。……でも、陽子には聞いてほしいかもしれない。」

 すると陽子は小さく頷き、夕の両目を静かに見上げた。

 いつでも何でも話していいよ、の素振りに、夕は思わず苦笑する。

 陽子は3つ年下の女の子だ。その子に、こんなふうに、優しい保育士さんみたいな顔をさせている。

 「……たくさんあるよ。裏切られたことは。……話しきれないくらい。」

 「いいですよ。陽子がずっと聞きますから。」

 夕は首を左右に振って、ちょっと笑ってみせた。

 「なんか、言葉にしようと思うと、上手く出てこないな。……たくさんあった、はずなのに。」

 多分、小さい出来事は本質的なところではどうでも良くて、誰にも愛されなかったという、その事実が夕の中に裏切られた子供を作り出しているのだろう。

 子供なら当たり前に与えられるような、親からの愛情。それを、夕は一度たりとも感じたことはなかった。

 夕の母は、夕を憎んだ。それは、夫によく似た容姿故に。そしておそらくは、自分の自由を奪ったものとして。

 夕の父親は、夕を見もしなかった。いつかは自分の資産を継ぐものとしての、最低限の情さえ与えはしなかった。

 そんな日々の中で、藤は……。

 「藤だけが、俺を見てくれたのかもしれない。……見つけて、思って、裏切らずにいてくれたのかも、知れない。」

 手のひらに包んだ千代紙の箱の蓋を、そっとなでてみる。

 陽子はその夕の手の動きを目で追った後、見つけましょう、と呟くように、けれどはっきりと言った。

 「藤さんのこと、絶対見つけましょう。」

 夕は、彼女の力強さに押されるようにして、こくりと頷いた。彼女がいてくれて、本当に良かった、と思いながら。

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