くるりと怒りの表情を収めた陽子が、何気ない調子で言う。

 「藤、藤、って言いますけど、私、本物の藤さんって見たことないんですよね。」

 あまりに素直に変わる表情もまた、彼女の幼さを引き立てるようで、夕は思わず吹き出しそうになったが、また怒られてはたまらない、と表情を引き締める。

 彼女の表情ではなく物言いも、まるでどこかに偽物の藤がいるかのようで、夕には可笑しかった。

 「そうか。見たことないのか。……そうだよな。陽子はまだここに勤めて一年だもんな。」

 「はい。お屋敷にも行ったことがないから……。」

 「見てみたい?」

 「え?」

 「藤。」

 戸惑う陽子に、夕は肩をすくめてみせた。

 「少なくとも、俺が見たことのある人間の中では、一番きれいだったよ、藤は。今はどうだか、俺も知らないけど。」

 夕とてめったに屋敷には足を運ばないし、わざわざ父の愛人を見になど余計に行かない。藤は屋敷の奥に囲われていてめったに外には出ないので、夕が最後に藤を見たのは、もう何年も前だった。

 「見ては、みたいですけど……。」

 陽子が夕の表情を伺うように、大きな目を軽く細めた。

 「じゃあ、行くか。見に。」

 夕が言うと、陽子は驚いたようにぱちぱちと目を瞬いた

 「でも、だって、藤さんは……、」

 「屋敷に顔出してみようぜ。写真くらいはあるだろう。」

 言い出したのは、ただの思いつきからだった。

 最後に藤と会ったとき。

 あれは夕が別宅に越して来て数年が経った日の夕方だった。

 まだ中学生だった夕が、学校終わりに別宅に戻ってくると、珍しく玄関先に父親がいた。ちょうど屋敷に戻るところだったらしい。

 夕は、頭を下げ、そのまま父親を見送ろうとした。久方ぶりに会ったって、なにを話すような親子関係でもなかった。

 その父が、藤を連れていたのだ。

 藤色の着物に身を包んだ彼は、父の後ろで細い身体をなおさら細めるようにして俯いていた。

 なぜ、藤を連れてきたのだ。母がいる、この別宅に。

 夕は怒りを抑えきれずに顔を上げ、父親を睨もうとした。

 するとそれより一瞬早く、ごめんなさい、と囁く声がした。

 細くても、すんなりと耳に通る、きれいな声。

 藤だった。

とっさに顔を上げると、藤は泣きそうな顔で夕を見つめていた。

 夕は何も言えず、身動きも取れず、藤の切れ長の両目を見つめ返した。

 あれが確か、藤と会った最後。

 「……行こう、陽子。」

 声は半ば勝手に転がり出た。

 陽子は怪訝そうに眉を寄せはしたが、夕の顔を見上げると、行きます、と小さく呟いた。

 

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