2
「陽子は幸せですよ。旦那様に拾っていただいて。そうじゃなかったら、きっとどこかで野垂れ死んでいましたから。」
陽子は、ひどく尊いものでも見るみたいに、両目をそっと細めた。その視線の先にあるのは、ただの電車の窓なのに、それでも。
旦那様に拾っていただいて。
夕はその言葉を聞いて、陽子がうちにやってきた日のことを思い出した。
夕が大学の講義を終えて帰ると、襖を開きっぱなしにした客間に父と母と陽子がいた。陽子は少しうつむき、父の隣に小さくなって座っていた。
木目のテーブルを挟んで向かい側に座る母は、いつもと変わらない、冷え切った無表情をしていた。
夕は、また父が愛人を連れてきたのかと思った。陽子からはまだ女の匂いがしなかったけれど、藤が屋敷に連れてこられたのも、目の前の陽子と同じような年齢の頃だった。
とんだ悪趣味だ。それをわざわざ母のもとに連れてくるところも。
そう思った夕は、そのまま客間の前を通り過ぎ、自室に向かった。
そして翌日、目を覚まして身支度を整え、学校に行こうと廊下に出ると、陽子が紺色のお仕着せを着て、廊下の水拭きをしていた。
夕は自分の勘違いに気が付き、思わず苦笑した。すると陽子がこちらを向き、なにを笑っているんですか? と問うてきた。
いつも機嫌が悪い坊ちゃんを薄っすらと恐れている、他の女中たちとは全く違う態度だった。
夕は、なんでもないよ、とだけ言って玄関で靴を引っ掛け、学校に向かった。
車窓の景色を眺めていた陽子が、ふとこちらを向いた。
「あのとき、夕さまは、陽子のことも愛人だと思っていたのでしょう?」
それは、疑問形というよりは、ただの確認だった。
夕はあの日と同じ苦笑を返した。
「旦那さまの愛人は、藤さんだけですよ。」
陽子がするりと言葉を紡ぐ。
「陽子がどんなに望んだって、女中止まりです。3号さんにもなれません。」
「え?……望んだ、のか?」
「ものの例えですよ。」
陽子は笑ったけれど、夕には陽子の言葉が信用できなかった。
ものの例えではなく、陽子の本心は、他のところにあるのではないかと。
「……藤が、羨ましいか?」
「いいえ。陽子には無理ですから。お屋敷の中でじっとしているだけなんて。」
夕は、それ以上言葉が接げなくなって黙った。
陽子は、静かに微笑んだまま車窓を行き過ぎる景色を眺めていた。
はじめは山や森ばかりだった景色が、いつの間にか住宅街に変わっている。
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