3
窓の外をしばらく黙って眺めていた陽子が、また唐突に口を開く。
「びっくりしましたか? 陽子がここに来た訳を聞いて。」
夕は面食らったが、素直に頷いた。
「驚いたよ。……陽子は、幸せの中にいる気がしてた。いつも明るいからかな。」
すると陽子は、いつものように笑ったまま、冗談交じりみたいな口調で言った。
「自分ひとりで覚えたんですよ。幸せごっこ。」
幸せごっこ。
ひどく寂しい言葉だと思った。
陽子はさらに言葉を継ぐ。
「だから陽子は、ちょっとだけ藤さん贔屓なんですよ。……多分、会ったこともないけど、なんとなく、藤さんも同じ気がするから。」
夕は言葉を失い、ただじっと陽子を見た。
かつて藤が、幸せですよ、と囁いたのを思い出したのだ。
あれは、父親に届けものかなにかがあって、中学生だった夕が屋敷を訪れたときだ。
最低限のやりとりで用事を済ませ、夕はそのまま別宅に帰ろうとしていた。
すると、通りかかった離れの前で、藤が打ち水をしていた。その水が、夕の半ズボンの裾を濡らしたのだ。
「あ、」
声を漏らしたのは二人同時だった。
「申し訳ありません。」
藤は、ひどく恐縮した様子で、夕の前にかがみ込んだ。ズボンの濡れ具合を確認しようとしたのだろう。
夕は、てんぱってばたばたと後ずさった。
久しぶりに見る藤は、相変わらず、生身の人間とは思えないほどうつくしかった。
白地に藤の柄がついた浴衣の襟元から除く項が、長くて白く、夕の目に焼き付いた。
「乾くまで離れでお休み下さい。……この天気なら、きっとすぐに乾くでしょうから。」
その日は、空を青色の絵の具一色で塗りつぶしたような、まっさらな晴天だった。
「帰ります。歩いているうちに乾くから。」
そう言って、夕はその場から駆け出そうとした。
離れには行ってはいけない気がした。そこには、夕が見てはいけないものがある気が。
すると、藤の女より繊細な右手が、夕の腕を掴んで引き止めた。当たり前といえば当たり前なのだが、その力は大人の男のもので、夕は、視覚情報と腕に掛かる力とのギャップに驚いて立ちすくんだ。
左の手で、少し長めの髪をかきあげながら、藤は静かに言った。
「離れに入るのがお嫌なら、どうか縁側まででも。冷たいお茶とお菓子を差し上げますから。」
かき揚げた手の影になった左目が、深い藤色に見えた。
夕は、その色に引き込まれるように、藤について離れの縁側へ上がった。藤の背中は、揺れる柳のようにしなやかに痩せていた。
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