行先
海か故郷の村。
その単語をヒントに、夕は記憶の中に藤の姿を探した。
いつかは帰りたいと思います。
ふと蘇るのは、そんな声。
あれは、まだ夕が幼かった頃、この屋敷に藤と一緒に暮らした僅かな日々の中で聞いた言葉だ。
離れには藤の精が住んでいる。
そう思い込んだ夕は、学校から帰ってくると、こっそり離れの近くに忍び寄るようになっていた。
たいていの場合は、女中か庭師に見つかって、追い出されてしまい、藤の影さえ見つけることはできなかった。
それでも夕が藤を諦めなかったのは、なぜだったか、もうよく覚えてはいない。多分、本当に藤を妖精と思い込んでいたから、多少の妨害に会うのは当然と思っていたのかもしれない。少なくとも夕は、その時まだ9歳だった。
そんなある日、あれは初夏のことだった。離れの藤棚には、うつくしい藤の花が咲き乱れていた。その藤棚の下に、夕は藤の姿を認めた。
藤は、藤の花に溶け込んでいきそうな、藤色の衣を身にまとい、一人でぼんやり花を眺めていた。
藤と会うのは、まだ二度目だった。夕はいささか緊張しながら、藤、と声をかけた。
藤が、ゆっくりと振り返る。
真っ白い肌も、色素の薄い目や髪も、藤の色を移してぼんやりと発光して見えた。
「……夕さま。」
ぽつり、と、藤がため息のように夕を呼んだ。
夕は頷き、一目散に藤に駆け寄った。ぼうっとしていたら、目の間のうつくしい人は、花に攫われるように消えてしまうような気がしたのだ。
藤は、微笑むと軽く膝を折って夕を迎えてくれた。夕はそれが嬉しくて、藤の白い両手にしがみついた。
「ずっと離れにいたの? 探したけど、いつも女中に邪魔をされて見つけられなかったんだ。」
夕が駆け込むようにそう言うと、藤は蜉蝣みたいに透き通る頬で静かに笑った。
「私は、いつだってここにいますよ。」
「いつだって?」
問返せば、彼は優しげに目を細め、こくりと頷いた。
「じゃあ、いつまで?」
その問いかけに、他意はなかった。ただ、藤の居所を知っておきたかっただけだ。
藤にもそのことは伝っていたと思う。けれど、彼は大きく瞬きをした後、右の頬に涙をこぼした。
夕は驚いて、ぽかんと口を開けてその涙の行く末を目で追った。
薄い藤の色に染まった雫は、滑らかな頬から細い顎へ流れ、やがて真っ白い襟に吸い込まれて消えた。
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