老婆は二人を二階にある客室に通した。並んだ三部屋が客室のようだったが、他に客が泊まっているような様子はなかった。二人が通された部屋は、二階の一番奥だった。

 中は6畳の和室で、部屋の奥に小さな卓袱台が置かれていた。そこに鏡がぼんやり虚ろに光を反射していた。

 老婆は卓袱台に茶器の用意をすると、押し入れを開けて布団を二組敷いた。動作は角ばって緩やかだったが、手を貸すことを許さないなんらかの空気が彼女からは発せられていた。

 ごゆっくり。

 彼女が囁くように言い、部屋を出ていくと、当たり前のことだが夕と藤は二人っきりになった。

 「……お茶を、淹れましょうか。」

 寒かったですものね、と、藤が卓袱台の前に膝をついた。

 夕は、その背中を見つめていた。

 こぽこぽと、花がらのポットの湯を青い急須に注ぎながら、落ち着かない、と、藤が呟いた。夕も、同感だった。

 「……なにか、命じてくださいよ。私は、もう10年以上、そういう形でしか人と関わっていないんです。」

 急須から湯呑へ茶を注ぎ入れながら、藤ははっきりとそう言った。

 命じてください。

 その言葉の真剣さに、夕はいっそたじろいだ。

 父の匂いが鼻先に漂った気がした。そんなものが感じられるほど、父に近づいたことなどないくせに。

 「脱げ。」

 父の匂いを振り払うように発した言葉は、突発的だった。口にしてから、その内容に自分で驚いたくらいに。

 脱げ。

 その一言に、藤はびくりと肩を弾ませた。ぽつん、と一滴、茶の雫が卓袱台に散った。

 焦った夕は、焦って首を横に振った。

 違う、そういう意味じゃないと。

 「いつまでもそんな着物着てたら息が詰まるだろ。脱いで、浴衣に着替えろよ。」

 そう言いながら、傍らの籠に入れてあった浴衣と帯を、藤に向かって放る。

 浴衣と帯は、藤の背中にぽすんと触れて止まった。

 ゆっくりと夕を振り返った藤は、分かりました、と微笑んだ。そして、するするとしなやかな動作で帯を解いた。

 その姿から視線を外しつつ、夕は畳の上へ胡座をかいて座り込んだ。

 本当は、分かっていた。

 息が詰まるから着物を脱がせようとしたのではない。そこに漂う父の匂いに耐えられなかったのだ。

 いつも藤は、制服のように高価な藤色の衣を着ていた。それは、今日も。

 「明日、どこかで服を買おう。」

 名に因んだりしなくていい。なにか、藤に似合う洋服を。

 はい、と、浴衣の帯を結びながら、藤はやはり従順に頷いた。


 

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