一夜
私を抱くのはお嫌ですか。
藤がそう言ったのは、多分普段は食事を出していないのだろう老婆の、心づくしの食事を終え、夕がぼんやりと卓袱台に肘をついているときだった。
「え?」
驚いた夕が振り向くと、藤は窓枠に腕を置き、窓越しの雪を見つめていた。
硬い横顔をしていた。これまで夕が見たことのない表情。いつだって藤は、夕に向かって微笑んでいたから。
「なにも望みません。……あなたのお側に置いていただけるとも思っていません。……ただ、一度だけ抱いてほしいんです。」
滔々と、藤は言葉を紡いだ。
夕は反応できないまま、ただ藤を凝視していた。
抱いてほしい。
そんな台詞が、幼い頃に憧れた藤の精から出てくるなんて信じられずに。
ゆっくりと、藤が夕の方へ顔を向けた。そこには、窶れたような微笑があった。
「……お父様が触れた身体です。……お嫌でしょうね。」
夕はやはりなにも答えられず、瞬きと呼吸さえ忘れ、痛々しいようなその微笑を見つめていた。
すると、舞でも舞うような仕草で、藤がすらりと立ち上がった。
「脱ぎます。……見てみて下さい。お嫌なら、そう言って下さい。……私には、この身体しか、ないんです。」
そこに来てようやく、夕は金縛りに打ち勝ち、待て、と口にすることができた。
「待てよ。そんなこと、しなくていい。」
声は喉の奥でひしゃげ、ざらざらと聞こえの悪い響き方をした。それでもとにかく夕は、藤を止めたかったのだ。取り返しがつかないことになる前に。
藤は、帯に手をかけた姿勢のまま、じっと夕を見つめた。それも、夕の見たことのない視線だった。幼い夕には決して向けられなかった種類の視線。
柳のように痩せた身体のどこにそんな熱量があるのか、藤は燃えるような目をしていた。
この身体しかないから、抱いてほしい。
本気なのだと分かった。藤は心の底からそう言っているのだと。
「やはり、見るのもお嫌ですか。」
熱い目をしたまま、唇を凍らせるように藤が囁いた。
「違う。」
夕はなんとか声を絞り出した。
幼い頃から、焦がれ続けた身体だった。触れたくて触れたくて仕方がなかった。ごまかすように女を抱いた、虚しい夜の記憶が蘇る。
それでも、違う、と言いたかった。言わねばならないと思った。
「違うよ。あんたは、身体だけなんかじゃない。」
父親に買われた身体。
自分にあるのは身体だけと思い込むほど、抱かれ続けた十数年間。
痛々しすぎた。佇むその姿が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます