第8話
水曜日の二限目。今日の美術の時間は書道だ。
……書道って美術の時間にやるものだっけ。
小学校とか中学校の時は国語の時間がたまに書道の授業になっていた気がするけど、この学校では美術の時間にやるということらしい。
四月ももうすぐ終わり。美術の授業は三回目だけど、絵筆より先に習字筆を持つことになるとは思わなかった。最初の二回は鉛筆デッサンだったし。
書道と絵。筆を使うところとか、私が苦手なところとか、共通点はたくさんある。そう考えたら別におかしなことはないのかもしれなかった。
そんなことを考えながらプルプルと震える腕で筆を動かす。力加減が難しくて、横棒一本も綺麗に書けない。
「ふぅ……」
一文字書くたびに深く息をつく。まだ半紙二枚分しか書いてないのにかなり気力を消費していた。やっぱりこういう繊細な作業は苦手だ。無駄に凝り性だから時間かけちゃうし。
一息つくついでに隣を見てみる。美術室の座席は教室と同じなので、隣にはちゃんと小山さんがいる。
綺麗な姿勢で半紙と向き合う小山さんはあまりにも様になっていて、思わず目を奪われそうになる。美術の時間、小山さんは体育の時と同じく髪を縛ってポニーテールにしていて、普段は見えないお耳やおうなじが見えてとてもよい。この姿を切り取って、書道コンテストとかのポスターに使ってほしい。
手元に視線を戻して、新しい半紙を用意する。
今回は初めての書道の授業ということで、軽い説明の後は自由に書いていいと言われた。そして一番出来のいいと思うものを提出すればいいらしい。
けれど、この調子だと提出できそうなものが書けるかどうか不安だ。納得のいかないものを泣く泣く提出することになるかもしれない。
何と書くかも指定されていないので、それも決めないといけない。とりあえず二枚「青春」と書いてみたけど、高校生が書くには簡単すぎる気もする。どうだろう。
でも「春」って文字は入れたいよね。なんとなく。なんとなくね。いま春だしね。
青春以外だと何があるだろう。
春風、とか。
「……………………」
春。風。
これはいけない。よくない。自分の思考に呆れてしまう。
はぁと軽く息を吐いて頭をリセットする。早く決めてしまわないと。
もうすでに何人かは提出しているようで、急かされているような気分になってくる。授業が終わるまでまだあと三十分ぐらいあるから焦る必要は全くないのだけど。
すると目の前の園山さんも席を立って、先生に提出しに行った。はやーい。
園山さんは戻ってくるとそのままこちらに話しかけてきた。
「高瀬さん、青春? いいねー」
私が書いた残骸を見て園山さんがそう言う。言葉だけ聞くと私が青春してるみたいだ。
「いや、とりあえず書いてみただけで、どうしよっかなーって。園山さんはなんて書いたの?」
「『点滴穿石』にしたよ」
「渋くない? ていうか難しくない?」
四文字の時点で強い。それをもう提出したというのならもっと強い。
「なんとなく思いついたから書いちゃった。自由っていいよね〜」
「なんでもいいって言われると悩んじゃうんだよね」
「書いたもの全部出さなきゃいけないわけじゃないし、色々書いてみたらいいんじゃない?」
「確かに。そうだね」
「私ももっと書こー!」
そう言って園山さんは前に向きなおした。なんでも楽しむ姿勢、見習いたい。
せっかくだし私も普段は書かないような言葉を書いてみたいかもしれない。それか書道で書くには俗っぽいというか、日常的すぎる言葉でも面白いかも? 「謀反」「捻挫」「左腕」とか色々考えてみるけれど、どれもしっくりこない。やっぱり「春」は欲しいかなー。
結局書いてみることはせず、そんなことを少しの間考えていた時だった。
突然、小山さんがガタッ! と大きな音を立てて椅子から立ち上がったのだ。
穏やかな教室を裂くようなその音に、誰もの視線が集まる。すぐ隣にいた私も例外ではなかった。
小山さんは左側を見ていて、こっちからじゃ表情が見えない。体勢は何かに驚いて飛び退いたようだけど……そう思って小山さんの視線の先を見ると、半紙を手に立ち尽くす女の子がいた。
あの子が小山さんに何かした……? と思ったけど、その子も何が起こったのかわからないような表情をしている。
「ぁ……すみ、ません」
震え声でそう謝ったのは小山さんの方で、すぐに前を向いて席に座り直した。その横顔は心なしか青く、いつものような輝きは少し欠けているように見える。
「小山さん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「大丈夫ですか?」
園山さんと先生が小山さんを心配して声をかける。私は初めて見る辛そうな表情の小山さんに、なんて言葉をかけていいのかわからずただ見つめることしかできなかった。
「具合が悪いなら保健室に行きますか?」
「……はい、すみません」
「一人でいける?」
「うん、ありがとう」
小山さんはゆっくりと、心もとない足取りで美術室を出ていく。
小山さんへの心配と、何もできない自分の無力さに胸がひりひりと痛むようだった。
昼休み。不安や緊張に胸を満たされながら、私は保健室の扉の前に立っていた。三限目の間も戻ってこなかった小山さんの様子を見に来たのだ。
あんな風に狼狽した小山さんは初めて見た。まだ出会ってから一ヶ月も経っていないのだから、知らないところがあるのは当然なのだけど、いつもと違うとやっぱり不安になってしまう。
小山さんの様子がおかしくなった時に隣に立っていた子が言うには、落としてしまった半紙を拾いあげた際に、小山さんが驚いたように立ち上がったのだという。
きっと嘘ではないだろうけど、小山さんが驚いた原因も、気分を悪くした原因も見えてこない。
書道の残りの時間と三限目の間にずっと考えて、私は一つの可能性に思い当たった。
春ちゃんは髪に触れられるのが苦手だと言っていた。半紙を拾う際に後ろから近寄られて、危機感のようなものを感じたのではないか。半紙を落とした子の席の位置も小山さんの斜め後ろだし、筋は通っていると思う。
どれだけ考えても、真相は小山さん自身にしかわからないのだけど。
真相を確かめるべく、という訳ではないけど、私は覚悟を決めて保健室の扉を三回ノックしてゆっくりと扉を開けた。
「失礼します。一年A組の高瀬です。小山さんの様子を見に来ました」
何度も脳内シミュレーションした文言を口にする。これっぽっちのことで心臓がバクバクと鳴るほど緊張する、不便な身体だ。
「
「え?」
見当たらない先生の代わりに、ベッドのカーテンの中から小山さんが現れた。普段より少し弱々しい声で、私の下の名前を呼びながら。そしてどういうわけか大きなクマのぬいぐるみを抱いている。
情報量が多くて処理が追いつかないけど、かわいいということだけはわかる。
「小山さん、えっと、先生は?」
私がそう問うと小山さんはハッとして、クマさんをぎゅっと抱きしめながら恥ずかしがるように目を伏せた。とってもかわいい。
「ご、ごめんね! 勝手に名前で呼んじゃって」
「ううん、全然いいよ」
むしろ嬉しい。ドキドキしてしまうほどに。
「先生はさっき職員室に行ったから、今はわたし一人。すぐ戻ってくると思う」
見たところ顔色はだいぶ良くなっていて安心する。けれど普段よりも少し弱っているようで、声は細くか弱い。クマさんを抱いているせいか普段より幼く見えて、庇護欲のようなものが湧いてくる。
「具合はどう?」
「うん、大丈夫」
「そっか、よかった」
小山さんに何があったのか、聞きたくはあるけれど、デリケートな問題かもしれないし聞くのは躊躇われる。ふんわりと気遣うことしか私にはできない。
「先生戻ってくるまで座って待ってよ?」
「あ、うん」
小山さんに促されるままベッドに二人並んで腰掛ける。
「そのクマさんは?」
ずっと気になっていたことを聞く。クマさんは見た感じ全長1メートルぐらいあって、見るからにふわふわで触ると気持ちよさそうだ。
「あ、これは先生が貸してくれたの。ぎゅってすると落ち着くからって」
「へぇ」
保健室の備品のひとつということか。確かにストレスとか緩和されそうだ。
「高瀬さんもぎゅってしてみる?」
「え、いいの?」
え、いいの?
「いい、と思う。ほら、気持ちいいよ」
「じゃあ……」
差し出されたクマさんを両手でそっと受け取る。クマさんにほんの少し残った小山さんの温もりが手の平に伝わって、鼓動が早くなるのを感じた。
「ほら、ぎゅってしてみて」
「う、うん」
相当気に入っているのか、小山さんの推しが強い。
人前でぬいぐるみを抱きしめるのってなんか恥ずかしくない? でも小山さんの期待(?)を裏切るわけにもいかないので、できるだけ優しく抱きしめてみる。
ふわふわで、あったかくて、いい匂いがする……
「どう?」
「気持ちいい……」
ついついクマさんの頭に頬ずりしてしまう。視線を思い出してすぐやめたけど。
「ふふ、でしょ?」
なぜか小山さんが得意げになっているけれど、かわいいので気にしないことにする。
しばし堪能してから、小山さんの元へクマさんを返す。小山さんはまた愛おしそうにクマさんを抱きしめて、その頭を撫でる。
心なしかクマさんも幸せそうな顔をしているように見えた。
いいなぁ……なんて。
クマを撫でる小山さんはあまりにも可愛らしく、ずっと見ていられるような光景だ。
そんな光景を見て私は、どうしてこんなモヤモヤとした感情を抱いているのだろう。
答えは明白で、とても馬鹿馬鹿しいものだとわかっている。わかっているけど、認めてしまいたくないものだ。
小山さんといると、しょっちゅうこんな気持ちになる。確かな幸せと、より大きな幸せへの欲求がせめぎ合う。
「ねぇ、風花ちゃん」
「えっ?」
さっきぶり二回目、胸が跳ねるような響き。
「……って、これから呼んじゃだめ、かな?」
「もちろん、いいよ! その、嬉しいし……」
「ほんと? じゃあ、わたしのことも下の名前で呼んでほしいな」
「っ! いいの?」
苗字で呼び合うことが多いこの学校。誰とも友好的な園山さんでさえもほとんどの人は苗字呼びにするほどだ。
そんな中で、下の名前で呼び合うなんて。
小山さんが頷く。違う、小山さんじゃなくて……
「春……ちゃん」
ちゃん。ちゃんって。
ちゃん付けなんて、小学校低学年の時以来で恥ずかしくなる。中学の同級生に聞かれたらからかわれそうだ。
小山さん……春ちゃんは私が名前を呼ぶと少し照れたように、けれど嬉しそうに破顔した。
ただ名前を呼んだだけでこんな素敵な笑顔を向けてくれることに、高揚感や優越感が溢れだしてくる。
今、私だけが彼女の近くにいる。
そんな実感が胸を締め付けて、奥に隠している気持ちを外に出そうとしてくる。
一ヶ月近く誤魔化し続けてきたけど、一向に収まらないこの気持ちは多分、そういうことなんだろう。
他の子には決して抱かない、好き。という感情を。
認めて、自覚して、熱くなると、目の前の春ちゃんが一層輝いて見える。
春を受け入れた私の体は、まるで違う生き物になったみたいに新鮮な鼓動を始めた。
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