第19話

 翌日の13時前、約束通りに光ちゃんの家に来た。インターホンを押すのももう慣れたものだ。

 押してから少し待つと、扉が開いて光ちゃんが顔を出した。


「風花ちゃん、いらっしゃい」


 出てきた光ちゃんは、心なしかいつもより落ち着いてるというか、テンションが低めに見えた。


「おじゃまします」


 今日、お手伝いさんはいないのかな。玄関に入っても姿を見ることはなかった。インターホンにも出なかったし。

 ミミちゃんは来るかなと思って廊下の奥を見ていると、


「風花ちゃん」


 いつもの半分ぐらいの声量で、光ちゃんから声がかかった。


「光ちゃん?」


 やっぱり今日、ちょっと元気ない? そう思った瞬間、ぎゅっと、右手を柔らかな熱が包み込んだ。光ちゃんの左手だ。


「……ごめん。遊んでからのつもりだったんだけど、やっぱりそういう気分になれなくて」


 光ちゃんは俯き気味に、呟くようにそう言った。


「あの、どうしたの? 何かあった?」


 私は手を握り返す。光ちゃんはこの前秘密を話してくれた時みたいな、曇った表情をしていた。

 光ちゃんには似合わない、暗い表情。


「ちょっと、ね」


 私たちは手を繋いだまま二階へ上がった。

 案内されたのはいつものゲーム部屋じゃなくて、光ちゃんの部屋だった。女の子らしい、可愛い部屋だけど、意外と物は少ない。


 並んでベッドに腰掛けると、光ちゃんはふぅと一息ついた。そして私の肩に頭を傾けて、繋いだ手を握る力が強くなる。


「部活サボっちゃった」

「え、今日部活あったの?」

「うん。そろそろ練習始まった頃かな」


 あの光ちゃんが部活をサボった……というか休んだってことは、陸上部で何かあったってことだろうか。

 陸上部といえば、光ちゃんがいつも話している矢吹先輩がまず思い浮かぶけど……


「この前の話の続き……みたいな感じなんだけど」

「……うん」


 この前の話、というのは光ちゃんの秘密のことだろう。


 信じて、力になるって決めたんだ。

 私は握った手を離さないように、力を込め直した。


「前に言ったけど、わたし風花ちゃん以外の人の心が見えるの。風花ちゃん以外は、誰でも」


 そう、目を見ると感情の色が見えると言っていた。人なら誰でも見えるけど、唯一の例外が私、ということだった。


「だから当然、先輩のも見えちゃうんだ」


 光ちゃんの言う「先輩」が誰を指しているのかは明らかだ。


 ……正直、考えたことはあった。

 毎日のように陸上部で顔を合わせているのだから、当然矢吹先輩の心も見えているはずだと。


 好きな人の心が見える。望んだ色かどうかにかかわらず、突きつけられるように。

 知らなくていいことは往々にしてあるもので、そのせいで光ちゃんは二年間苦しんで来たのだ。私は想像することしかできないけれど、光ちゃんにのしかかる負担はあまりにも大きいのだと思う。


他人ひとの心を勝手に誰かに伝えるのは、いけないことだってわかってる。でも、そんなの、酷いよね。知りたくて知ったわけじゃないのに。覗きたくて覗いたわけじゃないのに。誰かに頼ることもできないなんて、そんなの……酷いよね」


 そんな負担を誰かと分け合おうとしたら、それは他者の気持ちを暴くことになる。だから、一人で抱え込むことを強いられる。


 そんなのは間違いなく、酷いことだ。


 だから私は……罪を、望まない罰を、少しでも私の方に渡してほしかった。


「聞かせて。大丈夫、誰にも言わないから」


 中学の頃、そう言って秘密を聞きたがる同級生がいたことを思い出す。正直言って嫌いな奴だったけど、今はそいつの真似をさせてもらう。

 悪い奴になってやる。

 だって、こんなことができるのは私だけなんだ。


「いいの……?」

「私が知りたいの」


 そういうことにしないといけないし、実際知りたい気持ちもある。

 光ちゃんはしばらく考え込んだ後、口を開いた。


「人の心が見えるようになってから少し経った頃、陸上部で高等部との合同練習があったの」


 心が見えるようになったのは確か二年前の五月と言っていた。当時光ちゃんは中学二年で、矢吹先輩は高校一年ということになる。


「先輩と会えるのは嬉しかったけど、心が見えちゃうのは怖かった。先輩はわたしを何とも思ってないって、ずっと前からわかってたから。それを突きつけられるのが怖かったの」


 学校で矢吹先輩の話をする時はあんなに明るくて楽しそうなのに、今は私がいないと倒れてしまいそうなほど心もとない。

 私は何も言わずに、淡々と続く光ちゃんの話に耳を傾ける。


「怖かったけど、勇気を出して先輩に会いに行った。会うのは卒業式以来で、相変わらずかっこよくて、素敵な人だった。でも……私に向ける色は、他の誰とも同じ、ありふれた色だった」


 好きな人に、何とも思われていない。想像するだけで寒気がするみたいだ。

 それも光ちゃんは一年間先輩との時間を積み重ねた上で、その事実を突きつけられたのだ。


 私だったら、耐えられるだろうか。


「それ自体はね、悲しかったけど、よかったの。覚悟してたことだから。でも……それだけじゃなかった」


 光ちゃんは一呼吸置いてから、続けた。


「先輩には、好きな人がいたの」


 どくんと、気分が悪くなるぐらい強く心臓が打った。


「練習が終わったあと、たぶん偶然会ったんだろうね。見たことない人と親しそうに話してた。その人にだけは、他の人には向けない綺麗な色を向けてた」


 綺麗な色、というのが残酷さを物語るようで、胸が締め付けられる。


「それで、その人と話してるとこを昨日も見ちゃってね。ちょっと落ち込んじゃったんだ」

「そう、だったんだ」


 叶わないとわかってしまった恋を、二年も続けてきたんだ。

 誰にも打ち明けられず、ずっと純粋な片思いを演じていたんだ。


 光ちゃんの矢吹先輩話は楽しくて面白くて、聞いていて元気を貰えるものだ。

 私が聞いてきたその全ての裏に、人には絶対に言えない事実があったんだ。


「ずっと、一人で頑張ってたんだね。ごめんね、私、全然気づかなくて」


 いたたまれなくて、光ちゃんにぎゅっと身を寄せた。


「謝らないで、風花ちゃんは何も悪くないよ。わたしが気づかれないようにしてたんだから」


 気づかれたらそれはそれで困るよ、と光ちゃんは少し笑って、私の腕を抱きしめた。


「……うん」


 何もできないのが辛くて、自分を恨みたくなる。せめて自分が光ちゃんの力について何か知っていればと、有り得ないことを望んでしまう。


「それにね、自分が今も先輩のこと好きかどうか、正直よくわかんないんだ」

「え……?」

「会えばかっこいいなって思うし、素敵な人だと思うけど、好きなのかどうかはわかんない。想ったところで叶わないって知ってから、自分の気持ちがわからなくなったの」


 光ちゃんは自嘲気味に笑って言う。


「他人の気持ちは一目でわかるのに、自分の気持ちは全くわからないなんて。バカみたいだよね、ほんと」


 そんなこと、言わないでよ。

 思ったけど、口には出さなかった。出せなかった。光ちゃんの吐露を受け止めるために私はいるんだから。


「でも、話してちょっとすっきりしたかも」


 光ちゃんはそう言って私の手を離すと、両腕を広げて仰向けに体を倒した。

 目を閉じて、力の抜けた笑顔を見せる光ちゃんを見ると、少しでも力になれたかなって思う。


「ありがとうね、風花ちゃん」


 光ちゃんは目を閉じたまま、穏やかな声でそう言った。


「うん」


 私だけ、心の色が見えない。

 なんでそんなことになってるのか、そもそもなんで光ちゃんにそんな力が宿ったのか、私にはわからない。わかりようがない。


 それはもどかしくて、気になってしょうがない問題だ。

 でも、一人の問題じゃない。私と光ちゃん、二人の問題だから、押しつぶされずに済んでいる。


 光ちゃんが抱えるたくさんの悩みも、潰される前に私に分けてほしい。

 そのために、私は光ちゃんに寄り添い続ける。それは今、私にしかできないことだから。




 いつの間にか寝てしまった光ちゃんに、ベッドにあったタオルケットをかける。

 疲れてたんだなぁ。私の前でだけでも思いっきり力を抜いて、心も体も休めてほしい。


 起きるまで私はスマホで小説でも読むことにした。

 静かな昼下がりの部屋は読書するには最適で、家で読む時よりもスムーズに読み進められた。


 ときどき光ちゃんの寝顔を確認しながら読書をして、一時間ほど経った頃。


「ん……」

「あ、起きた?」

「わたし、ねてた……?」


 寝起きの光ちゃん、ふにゃっとしててかわいい。


「おはよう」


 光ちゃんは時計を数秒間見つめてから、慌ててこちらに振り向いた。


「わたしそんなに寝てたの!? 起こしてくれたらよかったのに!」

「気持ちよさそうに寝てたから、起こすの申し訳なくて」

「えー……ありがとう……風花ちゃんずっとここにいたの?」

「うん。小説読んでた」

「向こうでゲームとかしててくれてもよかったのに」

「え、いやそれはさすがに……」


 光ちゃんを放っておけなかったし、この部屋から出ようとは思わなかった。

 そうじゃなくても勝手にゲームはしないけど。


「ごめんね、なんか甘えてばっかだね」

「いいよ。気にしないで」

「ありがと」


 そう言って笑った光ちゃんには、少しいつもの輝きが戻っていた。


「じゃあ、どうする? ちょっと遊ぶ?」


 ぐーっと伸びをしながら光ちゃんが問う。確かにまだ帰るには早い時間だけど。


「光ちゃんはもう大丈夫なの?」

「うん。喋って寝て、だいぶすっきりしたみたい。だからあとは遊べばカンペキ!」

「そっか。じゃあ遊ぼう」


 いつもの調子が戻ってきているようで安心する。やっぱり光ちゃんはこうじゃないと。


 私たちはそれからゲーム部屋に移動して、いつもより遅い時間まで遊んだ。

 途中で相良さがらさん――お手伝いさんが帰ってきて、部活に行ってないことを怒られてた。休むって言ってなかったんだ……

 でも、光ちゃんにも事情があったので許してあげてほしい。


 そういえば、お父さんやお母さんを見たことないけど、お仕事なのかな。それとも……

 人の家庭事情に突っ込むとろくなことがないのは重々承知しているので、言及はしなかった。


 私はまだ光ちゃんの全部を知ったわけじゃないけど、それでいいんだと思う。教えたいこと、話したいことだけを話し合って支え合えるのが親友だって思うから。


 胸を張って親友だと呼べる人は、私にとって初めてかもしれない。

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