第23話

 泣き疲れていつの間にか眠っていた。

 こんなに泣いたの、いつぶりだろう。私は幼い頃からあまり泣かない子どもだったから、本当に覚えていない。


 汗で体が冷えて寒気がする。とりあえず体を起こして座ったはいいものの、そこから動く気力が湧かない。


 時計を見ると午後7時前を指していた。いつもなら夜ご飯を食べる時間だけど、帰りに買ってくる予定だったから用意がない。

 お腹は空いているけど、今から外に出ようとは思えなかった。


 私は抜け殻みたいな体を強引に動かしてリビングに向かった。

 何かあるかなと思って棚を開けると、カップ麺が一つだけあった。多分、父が食べる予定のものだ。


 一瞬迷ったけど、私はそれを食べることにした。

 ポットに水を入れて沸かし、沸いたお湯を注いで5分待つ。待つ間も何もせず、ただ椅子に座っていた。


 テレビもつけず、静かな部屋で一人カップ麺を食べ終える。

 部屋に戻ると、父にメッセージを送った。


『カップ麺食べちゃったから、必要なら何か買って帰ってきて』


 それから私はシャワーを浴びて、髪もろくに乾かさないままベッドに倒れた。

 さっき寝たはずなのにまた眠気に襲われて、微睡みの中を彷徨う。


 ……春ちゃんから、何も連絡来てなかったな。


 当たり前だ。私の方から突き放して、逃げ出して、何を期待しているんだ。


 明日からのことを考えるだけで、息が詰まりそうになる。

 逃げ出した後悔が、今更全身を襲ってくる。


『わたしは……風花ちゃんとずっと友達でいたい……』


 友達でいたいって、言ってくれた。それなのに、私は突き放すように逃げ出した。

 今からでも謝れば、今まで通りでいられるかもしれない。


 春ちゃんは優しいから。


 結局私は、春ちゃんがいないと生きていけないんだ。恋人にはなれないとわかっても、誤魔化してでも一緒にいたいと思ってしまう。


 謝らなきゃ。

 明日、謝ろう。

 それで何も報われなかったら、その時はその時だ。


 大丈夫、まだ春ちゃんと出会って三ヶ月も経ってないんだから。人生のうちのたった三ヶ月なんて、たかが知れている。


 どうせいつしか埋もれて消えていく記憶なんだから。




 翌日、空虚な体に勇気と諦念を詰め込んで、引きずるようにして学校に来た。

 これから春ちゃんに会うこと、話すことを考えると、昨日の春ちゃんの悲愴に満ちた顔を思い出して苦しくなる。


 それでも、私は春ちゃんに謝らないといけない。

 他の誰でもない、春ちゃんのために。


 春ちゃんは私のことなんて気にしなくていいよって、ちゃんと伝えなきゃ。

 その先にある未来が、私にとってどれだけ暗いものだったとしても。


 いつも通りの時間に教室に着く。春ちゃんはまだ来ていない。


「あっ、風花ちゃん」

「光ちゃん。おはよう」

「おはよう……まだ体調あんまりよくなさそうだね……」

「……まだ寝不足が続いてて」


 光ちゃんに甘えたかったけど、今じゃない。ちゃんと春ちゃんに謝ってからだ。私は逃げない。


「そう? 保健室行きたくなったら遠慮せず言ってね」

「うん」


 光ちゃんは春ちゃんの気持ちが見えていた。

 それはつまり私の恋が叶わないことも知っていたということだ。


 教えてくれればよかったのに、なんて思わない。それができないのは重々承知していた。

 むしろそれを知った上で、応援すると言ってくれた。その優しさだけが、私の真っ暗な心を少し照らしてくれていた。


「ありがとう、光ちゃん」

「うん、無理しないでね」


 あとで泣きついちゃうかもしれないけどごめんね。

 光ちゃんは昨日同様、あまり喋らずに私をそっとしておいてくれた。


 もうすぐ来る春ちゃんを待つ。目を閉じて、その後のことをシミュレーションする。

 まず春ちゃんを廊下に連れ出して、二人になれる場所に行く。そして、昨日のことを謝って、お友達でいたいことをちゃんと伝える。


 時間に余裕はないから、迅速に。朝のタイミングを逃すと、次はお昼か放課後になってしまう。それは嫌だった。あまりこのままの状態が続いてほしくはない。


 5分過ぎ、10分過ぎ、いつもならもうとっくに来ているはずの時間になっても、春ちゃんは来なかった。


 まさか、と嫌な予感が過る。


 先生が入ってきて、あと1分でホームルームが始まるという時間。光ちゃんは空の春ちゃんの席を一瞥して、私に控えめな声で話しかけた。


「小山さん、来てないけど、何か聞いてる?」

「……ううん」


 何も聞いていない。けれど、心当たりはある。私だ。


 春ちゃんはもう私と会いたくない?


「はぁ……はぁ……」


 そう思われても仕方ないぐらい、嫌われてしまったのか。


「風花ちゃん、大丈夫?」

「っ、はぁ……」


 もう、とっくに終わっていたのか。


「保健室っ! 行こ!」

「ぅ……」


 謝ることすらもできない、私は。


「先生、高瀬さん保健室に連れていきます!」


 光ちゃんに手を引かれ、チャイムが鳴ると同時に教室を出た。




「大丈夫? 歩ける?」


 声が出なくて、私はこくりと頷く。

 光ちゃんに支えられてしばらく歩いて、保健室にたどり着いた。


「失礼します。先生は……いないね」


 保健室。私が春ちゃんへの思いを自覚した場所。来るのはあの時以来だった。


「ベッド使わせてもらおう」


 光ちゃんは私をベッドまで引っ張って、肩を支えながら寝かせてくれた。

 呼吸はさっきより落ち着いて、光ちゃんと二人きりなことに少し安心する。


「じゃあわたしは先生呼びに……」


 私は反射的に光ちゃんの手首を強く握っていた。一人になるのは、押しつぶされそうで怖かった。


「……先生来るまでここにいるね」

「ん……ありがと」


 光ちゃんは私の手を優しく握って言った。


「ほら、先生にはわたしが説明するから、寝てていいよ」


 そんな、光ちゃんの優しさに甘えてしまいたくて。


「私、春ちゃんにフラれちゃった。嫌われちゃった……」


 零れ落ちるように、そんな言葉が口から漏れた。


「え……」


 消え入りそうな光ちゃんの声は、保健室の扉が開く音にほとんどかき消されてしまっていた。


「あ……」


 それに気づいた光ちゃんは、すぐに立ち上がって私のそばを離れてしまった。


「おう園山。どうしたんだ?」

「えっと、高瀬さんが寝不足で気分が悪いそうなので連れてきました。ベッド使わせてもらってます」

「そうか、ありがとう」


 二人のそんなやりとりが聞こえて、すぐに先生がこちらに顔を出した。先生と会うのもあの時以来だ。


「大丈夫かー?」


 そう言って先生は私の額にそっと手を当てた。


「熱は……ないな。好きなだけ寝てていいから、ゆっくり休みな」

「あ、ありがとうございます」

「園山はもう戻りな」

「あ、はい。失礼します」


 光ちゃんはそう言ってすぐに戻ってしまった。寂しいけど、しょうがない。


「そうだ、くまちゃん使うか?」

「あ……」


 先生はかわいいペットを抱き上げるようにして、例の巨大なクマのぬいぐるみを棚から取り出した。

 あのぬいぐるみは、春ちゃんが気に入って可愛がっていた。クマさんを抱きしめる春ちゃんの姿が脳裏に浮かんで、切なさが込み上げる。


「……いえ、大丈夫です」

「そうか……」


 残念そうにする先生には申し訳ないけど、今は春ちゃんのことをあまり考えたくなかった。


「じゃあ、おやすみ。何かあったら声掛けてくれ」


 そう言って先生はベッドを囲うカーテンを閉じた。


 限界近い心と体をこれ以上締め付けないように、何も考えないようにして目を閉じる。するとぬるま湯に沈んでいくように、私はあっという間に眠りに落ちていった。

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