第30話
お路は確信した。ぬばたま様は成し遂げたのだと。ぬばたま様の呪いは完遂されたのだと。その証拠に、奥様は笑う時に頬を引き攣らせた。見覚えのある笑い方だった。
しかし変化に気づいた人間はいないようだった。旦那様さえこう笑った。
「おたま。最近なんだかよく笑うな」
「……さようでございますか」
「うむ。良い笑顔だ。こちらまで明るい気持ちになるぞ」
明るい気持ちになる、と聞いてお路は笑った。おかしな話だ。まぁ、男どもは仕方がない。男どもは腑抜けになる。それは当たり前のことだった。しかし女どもは違った。
――何だか思い出されるねぇ。
――ほんと。
――困ったもんだよ。
――もしかして、あれじゃないかい。
――あれって……。
――ぬばたま様。
勘がいいような悪いような。
だが一人、ある女中だけはその噂より先に気づいている風だった。お路は折を見てその女中に訊ねてみた。女中の名はお紅と言った。
「あんた、気づいてたね」
お路が話しかけるとお紅は小さく頷いた。それから続けた。
「とてもじゃないけど、奥様には言えなくて」
まぁ、仕方ないさね。とお路は笑った。
「ぬばたま様ですか」
「ぬばたま様さね」
それからお路は提案した。
「よし、ぬばたま様に関する決まり事を作ろう」
お紅は首を傾げた。
「決まり事って……」
「いいかい。まず一。誰かがぬばたま様に呪われたと分かった時、そのことを本人に告げてはならない。告げる時はぬばたま様を知っている者全員で告げなければならない」
「……どうしてですか」
「あんた、ぬばたま様に呪われたいかい」
「真っ平ごめんです」
「ぬばたま様に呪われた人間が今際の際にぬばたま様に頼ったら終わりだよ」
そう、これに関してはお路は少し恐れていた。しかしもう老い先短い。どうせ死ぬのだからと奥様にぬばたま様について教えたが、本来ならそうすべきではなかった。理由は上記だ。呪われた当人がぬばたま様に新月を迎えさせられる時、同じくぬばたま様に頼っては呪いが連鎖する。それは避けねばならない。
お路は続けた。
「二。速やかに呪いを終わらせるべきと思った場合『破滅の贖罪』を行わせること」
「何ですか『破滅の贖罪』って」
「命で償うって意味だよ」
「そんな方法があるのですか」
お路は方法を告げた。ぬばたま様にまつわる儀式だ。
「つ、つまり、私は……」
お紅が真っ青な顔でつぶやいた。
「誰かがぬばたま様に憑りつかれても、教えることなく、場合によっては破滅させ……」
「その通りだよ」
しかしお紅は少し考えた後、しっかりと頷いた。それからお路に告げた。
「その教え、受け継ぎます。子孫代々、この先も……」
*
新月、が気がかりだった。
記録が正しければ秋から冬にかけておおよそ三カ月間で変化が現れたことになる。
一方の私を振り返った。
半年以上、異変は続いている。倍近く。これに何か意味があるのか気になった。しばらく資料に首っ引きになって考えて、それからある結論を導いた。いや、結論というよりはただの仮説にすぎなかったが……。
もしかしたら、罪を認める期間が関係しているのかもしれない。この奥様のたま子さんとやらは三カ月で見てみぬふりに限界がきたのだろう。自分の罪を認めてしまった。結果罰の神であるぬばたま様が現れた。罪と罰がひとつのセットなら。考えられる説だった。
と、いうことは私はずっと罪を認識しなければ、ずっとぬばたま様に襲われることはないわけで。
ぬばたま様に襲われた結果どうなるのか、新月を迎えるとどうなるのか、この資料からではさっぱり分からなかったが、しかしいいことにならないのは違いない。新月、とやらはぬばたま様による攻撃を示すのかもしれない。起こらないに越したことはない。
当面、対処すべきことが分かっただけでも前進だった。罪の自覚と、新月への対処をすればいい。新月が罪の自覚にリンクするのであれば、ずっと認めずにいれば新月にならずに済む。素晴らしい仮説だった。検証してみる価値はある。これは科学的な思考に近い。仮説、検証、結論。
図書館からの帰り道。
お母さんからメッセージが届いて、豆腐を買ってきてほしいと言われた。私は帰り道にあるスーパーでそれを買うことにしたのだが、豆腐のある冷蔵棚に手を伸ばした瞬間、びっくりして固まった。それは唐突な変化だった。
いつだったか、ドアに挟んで内出血した指。
それが黒く染まり始めていたのだ。しかも範囲が前に見た時より広がっている。人差し指の先が綺麗に包まれていた。まるでそう、ほくろのような黒に……。
家に着く。母に豆腐を渡すと、私は部屋に帰りぼんやりと人差し指を見た。黒く染まった指。まるでインクか何かに指を突っ込んだみたい。
ぬばたま様の呪いだろうか。新月と何か関係があるのだろうか。分からなかった。ただ放置していいものではない気がして、私は湿布を切って貼るとその上から包帯を巻いた。目にさえ入らなければどうにかなる気がした。この指が、罪の自覚のパラメーターなら、そう、目にさえ入らなければ。
ただ、その日の夜頃。
指が痛み始めた。ずきずきし始めた。
とびっきり痛いというわけでもないが、無視できないくらいの痛みだった。眠るのにも苦労するくらい。救急箱を取りにリビングに行った。包帯を取って湿布を替え、冷やしてみようとした時だった。裸になった指を見た。そして、胸の中で何かがつぶれた。
黒ずみの部分が広がってる……。
爪は完全に覆われていた。第一関節もすっぽり、第二にも黒ずみが及ぼうとしている。異変だった。おかしいことだった。黒ずみ。まるで自分が炭になってきているみたいだった。
ふつふつと恐怖心が沸いてきた。心がぐらぐら揺れてバランスを失った。お母さんに相談しようか迷った。しばしの間ためらった後、私はふらふらとお父さんとお母さんの寝室を目指した。父はこの日出張でいなかった。家には母と二人きりだ。
寝室の前に着く。扉を開けると部屋の中は真っ暗だった。おかしい。すぐにそう思った。母は真っ暗だと眠れない人だ。寝る時はいつも常夜灯をつけて寝る。なのにどうして今夜は、こんな……。もしかして私の勘違いで今夜は仕事に行ってるのか? いや、お休みのはずなのだが……。豆腐を買ってきてと言われたし、夕飯も一緒に食べたし……じゃあやっぱりこの部屋で寝てるんだ。胸の中で何かが震える。何かが危険を知らせている。しかしもうお母さんに頼るより他選択肢がない。私はおそるおそる部屋の中に入った。小さな声で「お母さん」と発した。
唸り声が聞こえてきたのはその時だった。
母の声だった。
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
暗闇の中で何かを言っている。
「お母さん?」
存在を確認すべく声を出す。自分でも笑っちゃうくらい震えた、蚊トンボみたいな声が出た。
しかし母は応えなかった。代わりにハッキリ、つぶやき声が聞こえた。
「ぬ……ぬば……」
この時私はハッキリと恐怖を感じた。
「ぬばたま様……」
母は寝室の片隅で体育座りをしてひたすらそうつぶやいていた。俯いていて顔は見えない。公演を終えたバレリーナのように、頭をすっぽり両膝の間に隠してしまっているので表情が分からない。母はひたすら、膝と膝の間に向かってつぶやいていた。ぬばたま様……ぬばたま様……。
私にできたことは、数歩後退りして、寝室から廊下へ避難することくらいだった。何度か呼んだ。
「お母さん……」
しかし母は反応しなかった。私はこの場にいるとよくないものに飲まれる気がして、そのままリビングへと逃げた。
何今の!
一人になるとようやく頭が追いついた。さっきの廊下じゃ状況を理解できなかった。さっきの母の目の前じゃ事態を飲み込めなかった。何が、何が起きているの……? リビングの中をも埋めている闇の中に訊いたが当然答えは返ってこない。ここに来てようやく、私は自分が置かれている立場を理解した。
怪異の影響を受けた母と二人、家の中に閉じ込められている……。
それはとてもおそろしいことだった。恐怖に急騰した頭で思ったことは、とにかくこの家から出ることだった。私は玄関へ向かった。
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