終わり

第31話

 お鈴は幸福だった。

 金もある。家もある。全てがある。温かい寝床もあれば美味い食事もある。生活に色がある。

 お鈴は幸せだった。全てはぬばたま様のおかげだった。

 手毬唄を思い出す。


 ――庄屋の甚兵衛

 ――娘をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


 ――枡屋の官兵衛

 ――親父をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


 ――錠前屋の新兵衛

 ――子供をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


 ――庄屋の甚兵衛

 ――枡屋の官兵衛

 ――錠前屋の新兵衛

 ――ぬばたま様に

 ――かえられた

 ――かえられた


「ふふ」と、笑いが漏れた。



 玄関から、暗い外に出たものの行き先がない。どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 必死に考えた。そして、「困った時は警察に行く」という至極真っ当な手段を思いついた。電話しようかと思ったが、スマートフォンは部屋の充電器に繋がれている。とても電話をかけられる状況にない。この家に戻って母の存在を確かめるのは怖すぎる。

 うろたえる。私はどうするべきだろう。

 そうこうしている内に凍えてきた。冬の夜だ。薄いパジャマにカーディガンだけの格好じゃ寒すぎる。しかし上着を取りに行く度胸はない。

 靴を履いてきたのだけが懸命な判断だった。

 こうなれば直接交番に行こう。少し距離はあるが急ぎ足で行けば……と、懸命に足を動かして道を急いだ。私の家は住宅街の奥、少し入ったところにあるので、まず曲がり角を曲がる必要があった。左折。しかし問題は角を曲がった時に起こった。

 いや、何が起こったか、初めは分からなかった。

 気づけばいきなり暗くなった。街灯も、空から照らす月さえもない。本当にいきなり、洞窟みたいな場所に立っていたのだ。状況が全く理解できず、何度も首を振って辺りを見渡したのだが、見覚えのある街角ではないこと以外分からなかった。曲がり角を曲がった瞬間、私は全く違う場所に放り込まれていた。ただ目の前に――いや、私の前後に続いているのは長い……廊下だった。

 そして思い至る。

 ……学校? 

 辺りを見渡してみると、学校だと考えてみれば見覚えのあるものがいくつかある。掲示板。そこに貼られた掲示物――いじめ防止のポスターだ――リノリウムの床。細くて頼りない蛍光灯。

 そこは夜の学校だった。私は御滝中学校にいた。ただ学校にいるのには似つかわしくなく、私はパジャマで、カーディガンで、髪もボサボサ、それに外用の靴を履いていた。そうして夜の廊下に立っていた。暗いこと以外、見覚えのある景色。多分、二年生の教室があるフロアの廊下だった。

 突然の事態と、自分が置かれた場所との恐怖に駆られ、心臓が飛び上がる。胃がねじ切れて吐きそうだった。何、ここ。何何何……。

 すると、聞こえてきた。

 遠い、廊下の向こうから……。


 ――庄屋の甚兵衛

 ――娘をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


 か細い声だった。耳を澄ませないと聞こえないような。だが、別に耳を澄ませているわけでも何でもないのに、鼓膜を正確にくすぐった。夢の中から聞こえるような声だった。


 ――枡屋の官兵衛

 ――親父をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


「ぷぷいのぷい」

 妙に軽やかなその言葉をリピートする。


 ――錠前屋の新兵衛

 ――子供をころし

 ――知らんぷりのぷぷいのぷい

 ――ぬばたま様に

 ――たたられた

 ――たたられた


 この時ようやく私の耳は「ぬばたま様」の音を捉えた。途端に心が真っ黒に染まった。


 ――庄屋の甚兵衛

 ――枡屋の官兵衛

 ――錠前屋の新兵衛

 ――ぬばたま様に

 ――かえられた

 ――かえられた


 悲鳴が出た。涙が出た。いきなり放り込まれた夜の学校。そこで聞こえる謎の民謡。耳に息を吹きかけるような、そっと優しい気配で語られる「ぬばたま様」は不気味だった。正常でいろと言う方がおかしい。まともでいろと言う方がおかしい。

 どうしたらいいか分からなかった。私は何を、どういう手段を取ればこの状況から抜け出せるのか想像がつかなかった。ひとまずこの場にいるのがまずいことは分かっているが、かといってどこに行けばいいのかも分からない。おまけに夜の校舎は凍てつく寒さで、さっきから身も心もガタガタ震えている。


 ――知らんぷりのぷぷいのぷい――


 歌が近づいてきている! 少なくとも私にはそう聞こえた。どこかへ、どこかへ逃げなければ。でもどこへ? 頭を振る。辺りを見渡す。気のせいだろうか。歌は前方から聞こえてくる気がした。となれば後ろに逃げるしかない。私はとにかく足を動かして――頭の中はいったん空っぽにして――逃げた。ドアの上に出ている表札を見る。二年六組、二年五組、二年四組、二年三組、少しの間、長い廊下、そして……。

 職員室。

 ドアの下の隙間を見る。

 明かりが漏れていた。

 誰かいる……? 誰かいるの……? 

 ドアの前でためらう。だが背後からは……。


  ――庄屋の甚兵衛

  ――枡屋の官兵衛

  ――錠前屋の新兵衛


 もうここに逃げるしかない! 

 私は覚悟を決めて職員室のドアに手をかけた。意外にもそれはすんなり開いて、私はなだれ込むように中に入った。足がもたついてうっかり転んでしまい、職員室の木目の床に叩きつけられた。口の中を切っている。錆びっぽい味……しかし、ふと気づく。

 私の指。

 私の手。

 黒く染まっていた。さっきは第二関節までだった黒ずみが、今は人差し指を中心に中指、親指、とどんどん広がって……次第に右手全体を黒く染めた。肺の底から声が出た。意味不明な声だった。上半身を起こして両手見る。左手も同じように黒く染まり出して……いや、腕のいたるところから、ぽつぽつと半紙に墨汁が染みるように、まだらに黒い模様ができ始めていた。そしてそれはどんどん範囲を広げていった。

「な……な……」

 言葉が出ない。

「何これ……」

 ようやく人らしい発話をする。しかし現象は止まらなかった。黒はどんどん広がり、私の体を染め、侵食していった。私は何とか立ち上がった。

 室内は明るい。この部屋には誰かいる。誰か大人がいる。助けを、助けを求めれば……。


 ――庄屋の甚兵衛

 ――娘をころし


 黙って! 黙ってよ! 


 ――枡屋の官兵衛

 ――親父をころし


 誰も殺してなんていないでしょ! どうしてこんな……。


 ――錠前屋の新兵衛

 ――子供をころし


 誰か……! お願い、誰か……! 


 そう、頭の中で必死に叫びながら私は、職員室の奥にあった資料室の前に辿り着いた。戸に手をかける。押すのか引くのか分からなかったので前後にゆすると簡単に開いた。この中に、この中に逃げれば何とかやりすごせるかもしれない……。

 そして部屋に入り込み、後ろ手にドアを閉め、顔を上げた時だった。

 まず、藻屑のようなものが見えた。それが揺れる黒髪の先だと気づくのにそう時間はかからなかった。そしてその瞬間、全てが見えた。私の前に少女が立っていた。

 真っ黒で、ところどころ縮れたひどい髪質の、この学校の制服を着た、青白い肌で、伸び放題の爪、手にはノート、変な方向に曲がった関節の、パキパキと妙な音を立てる、髪の毛の奥の目がじっとこちらを見て……。

 発狂した。悲鳴とも絶叫ともとれない何かを発して私は倒れた。先程開けたばかりの戸を押す。だが開かない。何度か叩いた。しかし扉は開き方を忘れたと言わんばかりに硬直していた……いや、それはもはや壁だった。向こうに続く希望を見せるだけの壁だった。私はその壁に背をつけて後退りした。少女がゆっくりこちらに近づいてきた。


 ――お願い。お願いお願い――


 頭の中ではそう叫んでいるつもりだった。だが実際に、声として口から出た言葉は違った。


「私は悪くない! 私は悪くない私は悪くない!」


 自分で言っていて不思議だった。「悪い」? 悪いって何だ? 何に対して罪悪感を、私は何に対する弁明を……?

 そして気付いた。目の前の少女。パキパキ鳴る体の音の中で、ぶつぶつと、つぶやいている。


 ――庄屋の甚兵衛

 ――枡屋の官兵衛

 ――錠前屋の新兵衛

 ――ぬばたま様に 


 ぬばたま様。

 この一言が脳髄に染み込んで。

 頭の中がそれで支配された。


 ――ぬばたま様! ぬばたま様どうか、どうかお許しください! ぬばたま様。お願い、お願いどうか、ぬばたま様、ぬばたま様。私を、この私をどうか見逃してください。ぬばたま様、ぬばたま様――


 不意に、目の前の少女が止まった。

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