第32話

「それで……」

 お紅はお路に訊ねた。

「奥様は、どうなるんです?」

「奥様って言うのは……」

 お路は洗濯物を干しながら言葉を返した。ひどい鉛雲で、お路もお紅も何でこんな日に洗濯物を外で干そうとしたのか疑問に思うくらいだった。

「奥様って言うのは、今の奥様かい」

「いえ」

 お紅は首を横に振った。

「その前の奥様です」

「ああ」

 お路は笑った。それから告げた。

「あんたもぬばたま様に頼ってごらん」

 お紅が顔を青くした。

「きっと会えるよ」



 真っ黒な少女が止まった。それまで聞こえていたパキパキという謎の音も止まって、目の前にはうちの制服を着た女の子が一人、ぼーっと、立っていた。私は顔を上げた。そこにいたのは水堂優理香さんだった。隣のクラスの……二年三組の保健体育係の。

 ボサボサの髪……でもそれは、前からだった。どうも髪質が弱いらしい。家で使っているシャンプーが合っていないのだろう。跳ねる毛はロングにすることで対策しているようだった。だから彼女は、長くて綺麗な黒髪だった。

 透き通るほど白い肌……細い腕の中に何本か、血管が青く浮いてる。男子がどう思うかは知らないが、女子の私はあの腕にかぶりつきたい欲求に駆られたことがある。特に、そう、肘の内側の柔らかいところ。

 小ぶりの顔……キャベツほどもないんじゃないだろうか。端正な顔立ちで、とても綺麗。目もハッキリしていて、伏し目がちなことを除けば、本当に綺麗な、いや、美しい女の子で……。

 そこにはさっきのあのバケモノはいなかった。いるのはただ一人の女の子だった。ため息が出るような女の子だった。そんな子が目の前にいた。


 ――危うく全員減点するところだった。

 

 しかし彼女の声は暗かった。恨みが、怒りがこもっている声だった。

「げ、減点って……?」

 と、言い淀んだ私の前に一冊のノートが放り出された。それは私にとっては見慣れたノートだった。

 保健体育の資料ノート……。

 放り出された拍子にページが開かれていた。

 そこにあったのは男女の発育過程が描かれた資料だった。男女の裸体が並んでいて、性徴の変化を図示していた。

 そして私は思い出した。水堂さんのお墓参りに行った時。

 木本家の墓の前にあったノート。そうだ。そういえばあれは不自然だった。いくらお供え物が多様だからと言って、あんなノートが、ぽんと一冊……あれはメッセージだったんだ。このノートが原因のひとつだっていう、水堂さんからの……。


 ――今日はちゃんと持ってきたか。

 ――前回の提出時もちゃんと持ってきましたよ。

 ――お前のいる四組はな。三組は遅れた。


 脳裏にいつかの会話が流れた。野田山先生との会話だ。いつだったか、保健体育のノートを提出しに行った時の会話だ。

 目の前の水堂さんが続けた。


 ――体調悪い? 私が持っていってあげるよ。


 彼女の声が頭の中に反響する……が、よく聞くと、それは私の声だった。私が水堂さんに告げた言葉だった。

 思い出した。ある日の保健体育ノートの提出日。水堂さんが具合悪そうにしていたので、私は代わりにノートを提出してあげることを提案したのだった。

 そして……そうだ。さっきの野田山の発言。


 ――お前のいる四組はな。三組は遅れた。


 心臓が、いや肺の底まで、一気に凍えた。そう、私は思い出した。思い出したのだ。水堂さんが死ぬ前に起こった一悶着を。ほんの小さなトラブルを。



「あり得ないんだけど! ねぇ! 内申点に影響が出る大事な時期だって分かってるよね!」

 二年三組の前で雑談をしていた私。ふと、クラスの端っこでそんなやりとりが発生しているのを見かけた。それは性格のきつそうな女子数名が……合阪、赤須、昼川の三人が、水堂さんに詰め寄っている場面だった。周りには同じ三組の女子が円陣を組むようにして集まっていて、どうもクラス中の女子で水堂さんをリンチしているようだった。私は好奇心に駆られて耳を澄ませた。ああいうトラブルは大好きだった。大好物だった。

「保健体育なんてテストでも取り返しにくいじゃん! 五教科と違ってまともに勉強したって入試に使われないし」

「だから授業態度とか提出物とか守るしかないんだよ!」

「ねぇさ、これでうちらが行きたい高校行けなかったらどうしてくれるわけ?」

 あーあ。何か提出忘れでもあったか……なんて腹の中で笑った時、すぐに思い至った。

 ――体調悪い? 私が持っていってあげるよ。

 生徒会長選挙を前に、人気欲しさに張った見栄だった。こういう暗い奴は優しくしとけばすぐ票を入れるだろうとたかをくくった親切だった。私が水堂に申し出たことだった。提出用の保健体育のノートを持っていってあげる。水堂さんは何もしなくていいよ。ゆっくり休んで。そんな、上っ面だけの優しさを見せたことを、私は一瞬で思い出した。そしてさらに記憶はよみがえった。

 三隅ちゃんに応援演説の内容を指示するために、その日の私は、保健体育係の仕事を早々に終わらせたかったのだ。そして早々に終わらせた。三組の分を提出することなんてすっかり忘れて。水堂さんにかけた上っ面の親切なんて忘れて。

「あ、あ……」

 三組の教室の端で詰め寄られていた水堂さんがこちらの方を見た。私は見てみぬふりをした。目線を逸らし、今し方おしゃべりしていた友達との会話を「何だっけ?」と続け、水堂さんのことを、根暗で陰気な奴のことを視界から意識から追い出し、知らんぷりを、他人のふりを……。

「恋本さんが、私の代わりに出してくれるって……」

 私はちらりと彼女を一瞥した。が、すぐに何事もなかったかのように「それでさー」と友達との会話を続けた。水堂さんがふらふらとこちらに近寄ってきた。

「恋本さん。私の代わりに提出してくれるって……」

「は? 隣のクラスの恋本さんが? んなわけねーだろ」

 合阪さんが顔を歪める。

「おい、何ひとのせいにしてるんだよ」

 赤須さんが乱暴な言葉を投げかける。

「今度は責任転嫁かよふざけんな」

 昼川さんが水堂さんの肩を掴んで引っ張った。どたりと倒れた水堂さんを見て、クラス中の女子がくすくす笑う。しかし水堂さんはまだ私に縋った。

「恋本さん、私、体調悪かったから……」

「知らない」

 私は短く告げた。

「そんなの知らないんだけど?」

 水堂さんが固まった。

「おいふざけんなよ」

 名前も知らない三組の女子が水堂さんを蹴飛ばした。それをきっかけに乱暴な性格の赤須さんが水堂さんの髪の毛をつかんで引っ張った。床に叩きつけられる。しかし水堂さんはまだよたよたと私の方に近づいてきた。別の女子に足をかけられて転んでしまっても、罵られて醜い言葉をかけられようとも、床を這いつくばるように進んできて、それから私の足にまとわりつくような恰好で「お願い、助けて」と懇願してきた。私はその様を見て、しゃがみ込み、彼女の耳元に口を近づけると告げた。短く、端的に。

「生徒会に立候補してるから優しくしたけど」

 この声は水堂さんにしか聞こえないはずだった。周りの他の女子には聞こえないよう配慮した。

「そうじゃなきゃあんたみたいなノロマ、相手にしないから。変な勘違いしないでよ」

 あの時の水堂さんの顔と言ったら。

 傑作だった。



「あなたは」

 目の前にいる水堂さんの声が、急に固形になった気がした。さっきまで脳裏に響くような、霞んだ、消えそうな声だったのが、急に鼓膜をハッキリと揺さぶる振動に変化した。

「自分のことしか見ていない」

 私は言葉を失った。

「そのくせ」

 私は口をパクパク動かした。なのに言葉が出てこない。

「見かけ上は人に優しくしようとする」

「その欺瞞が」

「その態度が」

「その嘘が」

「どれだけ人を傷つけるか」

「どれだけ人を振り回すか」

「どれだけ人を惑わすか」

「理解してない」

「分かってない」

「知らない」


 ――だったら何だって言うのよ! 


 そう、叫んでから気づく。

 あれ、声が……。


「欺瞞が暴かれそうになると」

 目の前の水堂さんは続けた。

「責任をひとになすり付け」

「押し付け」

「知らんぷりをし」

「自分は悪くないという」

「態度を取る」

 体中の皮膚に、じりじり汗がにじむ時のような感覚が走った。私は慌てて両手を見た。そして気付く。手が、両手が、腕が、真っ黒に、黒に……。

「あなたは学校で上手く立ち回っている。自分を有利にする術を知っている。大切に扱われる方法を知っている」

 水堂さんが……倒れている私の前でしゃがみ込んだ。それから私の耳元で告げた。

「あなたっていいよね」

 じりじりした感触が胸を、腹を、喉を、頬を、一気に包んでいった。嫌だ。嫌だ。嫌だ。私は絶叫した。


 ――いやあああああああああああああああ! 


 しかし声は、響かない。

 代わりに、目の前にいた水堂さんの影が。

 見る見る色を取り戻していく。

 見る見る形を変えていく。

 そうして彼女は、そう、水堂さんは……。


 私の目の前にいたのは私だった。私は「ふふ」と微笑むと、それから私の前を通って……いや、正確には資料室のドアを開けた。そのドアにもたれかかっていた私は間抜けにも隣の職員室の床に倒れ込んで、小さな唸り声を上げた。しかしそれさえも声にならなかった。出たのはこんな、木霊みたいなノイズだった。


 ――ぐう。


「さて」

 私のパジャマを着て、私のカーディガンを羽織っていた彼女は、急に職員室の端っこで壁に手をかけた。それは機械警備の装置だった。パチリとスイッチを押して作動させた後、私の姿をした水堂さんは……いや、私は、職員室の端っこで丸くなった。まるで、そう、今までそこで寝ていましたという風に。

 横になった、清らかな姿のまま、私が片目だけをぱちっと開いた。それからほっぺの端っこで笑った。

「大人を呼ぶね。これであなたは『神隠しにあった挙句学校で見つかった女の子』。大丈夫。上手くやるから。だからあなたは安心して……」

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