それから
第33話
ある日を境に、言われるようになった。
また奥様が、笑わなくなった。
奥様が沈んだ顔をなさっている。
そんな噂が屋敷中に流れた。
夫である村長は、今度は心配しなかった。
心配してはいけない気がした。
心配するのが怖かった。
関わってはいけない気がした。もし少しでも関与すれば、次は我が身である可能性があった。それだけはどうしても避けたかった。
ある日、村長は手毬を燃やした。もう二度と、見たくなかったからだ。
――でも、奥様ってぬばたま様じゃなかと?
――そのはずだけど、何かあったんかや。
――もう厄介ごとに巻き込まれるのは堪忍やわ。知らんぷりしとこ。
「こら」
お紅だった。お紅は着実に仕事をして、ついに女中を束ねる立場に就いていた。
「おしゃべりしている場合じゃありませんよ」
「はぁい」
女中たちは散り散りになっていく。残されたお紅は、いつの間にかそっと、背後に寄っていたお路に向かってこう告げる。
「火消しが必要ですね」
背後のお路が答える。
「吉三郎が何かを漏らすことはないさね」
「私とお路さんの間だけのことというわけですね」
「頼むよお前さん。ああやって今みたいに、ぬばたま様の話をしている連中を見かけたらやめさせるんだ」
お紅はため息をついた。それから訊ねた。
「でも、どうしてこんな……」
するとお路が笑った。
「いいかい、呪いっていうのは自分も苦しめるんだよ」
「はぁ、自分も」
「今頃『奥様』になった『お鈴』も、後悔して、苦しんでいるんじゃないかね」
虚しい。
お鈴は思った。ある日を境に、空虚な気持ちになったのだ。
ぬばたま様に願をかけて、呪いをかけて、生まれ変わって。
得られたものが何だというのだ。
私はお鈴として一生を終えたかった。
お鈴として幸せになりたかった。
だがこれは何だ。
あるのはたま子としての生活だ。お鈴としての生活じゃない。
お鈴は次第に空虚に飲まれた。胸の奥が空っぽになって、何をするにも億劫になった。何をやっても結局たま子が、奥様がやったことになるのだ。お鈴がやったことにならない。だったら、もう、いっそ、こんな人生……。
*
「ぬばたま様ってあったじゃん」
「ああ、あったな」
「おいそこ違うぞ。x-7=12」
「えっ、まじ」
「まじまじ。見直してみ」
「あっ、ほんとだ。すげーなお前」
「そんでさ、ぬばたま様ってあったじゃん」
「あったあった」
「最近聞かなくね?」
「あー、思い出した。ぬばたま様って恋本のだろ?」
「そんなんだったかも」
「もう新月ったんじゃね?」
「あー、新月っちゃったか」
「まぁ、確かめようがないけどさ。見た目変わらないし」
「でもぬばたま様ってこの学校の闇に囚われてるじゃん?」
「何その中二病みたいなの。ウケるんだけど」
「うるせーよ。まぁ、ぬばたま様って夜の御滝中の中をさまよい続けるわけじゃん?」
「うん」
「お前部活で遅くまで学校にいるじゃん。見かけねーの?」
「あー、そういや七組の竹野が見たって言ってたわ。女バスの」
「どんなんだったって?」
「知らんけど、ミディアムカットになってたって」
了
ぬばたま様 飯田太朗 @taroIda
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