第29話

 おたまはお鈴に嫉妬していた。

 顔に火傷がある傷物のくせに男たちに気に入られるあの女が嫌いだった。

 そしてそれは他の女たちも同じようだった。娘も姪もあいつが嫌いだったし、他の女中たちも同様だった。だからおたまがお鈴にすることは正義であるはずだったし、お鈴をこの屋敷から追い出すことは素晴らしい判断であるはずだった。

 ただまぁ、理由が必要だったからそれをでっち上げたことは、もしかしたら悪いことかもしれないとは思っていた。厄介払いするならするで堂々と「お前をもう雇えない」と言えばいいのだ。だがおたまの中の嫉妬心がそれを許さなかった。主人に、お鈴に対する失望を植え付けてからお鈴を追い出したかった。男に見限られたあいつを見たかった。男に捨てられたあいつを見たかった。

 果たしておたまの作戦は功を奏した。夫の宝物である金の棒をくすねてお鈴の部屋に隠す。怒り狂った夫がお鈴の部屋からそれを見つけ出し、お鈴を追い出す……という絵は見事だった。そしておたまの計画通りになった。

 だが、おかしいのはそこからだった。お鈴を追い出して、しばらく経ってからのことだった。

 目線を感じる。

 妙な人影を見る。

 屋敷の中で。屋敷の暗がりに隠れて。

 最初は、ただちょっと疲れているだけだと思った。何ということはないと思っていた。

 だがやがて無視できなくなった。無視できない理由があった。

 ほくろだと思った。頬の真ん中に黒い点。嫌なものができたねぇ、と思っていたが、その黒い点は日増しに大きくなっている気がした。おたまは困った。顔は女の命だ。そこに大きなほくろとあっちゃ、主人の気も逸れてしまうかもしれない。お鈴の再来とまではいかなくとも、よその女への目移りは避けたい。

 おたまは白粉でほくろを隠すようになった。夫は男なだけあって鈍感で、おたまの化粧の変化には気づかなかった。それが悲しくもあり、また安心材料でもあったおたまは、ほくろが大きくなることに不安を覚えながらも、特に対処をせずにひたすら、白粉で隠し続けた。しかし限界は来た。ある朝、突然の変化におたまは絶望した。

 ほくろが顔の半分を覆っていたのだ。

 見間違いだと思った。だから女中の一人を呼んで――口の堅い老婆のおみちを呼んで――顔を見せた。お路もびっくりして返した。


 ――奥様、それは……。


「知っているのかい」

 おたまが訊ねるとお路は答えた。


 ――もしかすると、ぬばたま様ですじゃ。


 ぬばたま様。

 よその村からこの実多木村の村長の家に嫁に来たおたまがその言葉を知ったのは、その時が初めてのことだった。

 そして恐ろしいことに、お路はこうも続けた。


 ――何か後ろ暗いことがございますか。


「そんなの……」


 ――お認めになることですじゃ。


「認めるって何を?」


 ――許しを請うても無駄ですじゃ。罪を認めない限り、永遠に、ずっと……。


「おかしなことを言わないで頂戴」


 ――奥様。路はもう老い先短いで言いたいことを言いますがな……。


「なんだい」


 ――相当悪いことをしましたの。


 それからおたまの苦悩の日々が始まった。

 ほくろが大きすぎて隠せず、部屋から出ることができない。

 襖も障子も閉め切って、ひたすら布団の中にいた。時折手鏡を見ては、顔が黒く染まっていく恐怖に震えた。お路が言っていたぬばたま様。何でも聞くところによると……。

「許して」

 おたまはつぶやいた。

「許して」

 しかしほくろは大きくなっていた。お路が言うところには。


 ――心の底から悪かったと思うことですじゃ。


 そんなの不可能だった。男の視線を集めたあのお鈴が悪いことは明白だった。おたまはあの一件については少しも後悔していなかった。

 だからだろう、ほくろは大きくなり続けた。

 そしてある日、それは来た。


 ――奥様。

 

 それはお鈴の声だった。


 ――時は満ちました。

 

 夜。草木も眠る丑三つ時。

 闇に隠れて、人影が部屋の中に立っていた。おたまはそれを感じた。そしてそれがお鈴だと確信した。


 ――時は満ちました。


 翌朝。おたまは……。



 カバンは意外にも、保健室近くの女子トイレにあった。

 中身がぶちまけられているかと思ったが、洗面台の鏡の前にぽつんとひとつ、置かれているだけだった。私はふらふらと鏡に近づくとカバンを手に取った。そして目の前にあるものを見て絶句した。

 鏡の中にいる自分。鏡に映った自分。

 黒く染まっていた。いや、完全に真っ黒というわけではないのだが、少なくとも黒のトーンをかけたくらいには染まっていた。私という存在そのものがすっぽり影に隠れたかのように染まっていた。私はカバンのことを忘れて数歩後ろに下がった。しかし私にかかった影は消えなかった。

 やがて、声が出た。

 えっ、えっ……。

 しかし事態は変わらなかった。胸の奥をぎゅっとつかまれるような恐怖が襲ってきた。とにかく逃げなければ。そんな思いだけが頭を支配した。

 カバンをつかむと廊下を走って逃げた。靴箱の前に来ると、カッターやハサミでぐちゃぐちゃにされた靴――間違いなくいじめだが――を無理やり足に引っ掛けて家路を急いだ。そうして家に着くと、私はベッドに逃げ込んでぶるぶる震えた。震えることしかできなかった。

 しかし翌日は、幸運にも休日だった。学校に行かなくていい。それだけで少し気持ちが軽い気がしたが、しかしあの現象は頭にこびりついていた。

 自分が影に染まったような、あの鏡像……。



 朝。

 鏡を見るのが怖かった。

 だが恐る恐る、洗面台の前に立ってみるとそこにはいつも通りの自分がいた。

 ほっと息をついて、洗顔に歯磨きを済ませる。

 今日、私はやろうと決めていることがあった。

 それは以前、御滝中学校の裏掲示板で見つけた話だった。

 図書館で郷土史について調べたくぉはらさん。ぬばたま様について調べたくぉはらさん。

 私にも調べられるのではないだろうか。私にもぬばたま様の真相を探ることはできるのではないだろうか。

 遅すぎるプランではあった。だが今できることはこれしかない気がした。ぬばたま様、そして御滝中学校について調べて、自分なりの解決法を見つけて、呪いから、影から解放されて……。

 いつもとは違い母が作った朝食を食べると、私は中学校から少し離れたところにある市立図書館を目指した。久しぶりに乗った自転車は何だか不安定で、正直これで大丈夫か懸念はあったが無事に図書館に着くことができた。館内に入ると私は郷土史のコーナーを目指した。古ぼけた分厚い本、やたらに大きい地図なんかが収められたコーナーのどこから探していいのか分からなかったが、とりあえず『実多木年鑑』とある本を手に取った。御滝町の前身が実多木村であることは裏掲示板で読んでいたし、古ぼけた感じがこのコーナーの中の最年長感を出していたからである。そして何より、「間宮義三」の名前が決定的だった。この人は確か御滝高校の教師で、御滝町の歴史について調べてまとめた人物だからだ。

 二時間くらい、あれでもないこれでもないとページを繰っていた。

 そしていくらか疲れてきた頃に、たくさん並んだ文字列の中に「ぬばたま様」の記載を見つけた。高鳴る胸を抑えて内容を読む。こうあった。

〈ぬばたま様の心理を一言でまとめるなら『お前っていいよな』である。さらに言い換えるのであれば『自分より優位にあるが故に自分を迫害してくる存在について、偶然その立場に立てたことを羨む心情であり、俺がお前だったら……の具現化』である〉

 よく分からなかった。だが間宮さんはその記載の後に実例のようなものをまとめてくれていた。

〈延享二年の秋、実多木村村長吉竹家でぬばたま様が出た。ぬばたま様は吉竹健之助の妻、たま子を呪ったことが吉竹家に仕えるお馬番の吉三郎が残した手記にまとめられていた。吉三郎が記載するには、『新月』は延享二年の冬に早くも来たそうである……〉

 新月? 新月って何よ。

 そう思った私はさらにページを繰って「新月」の記載を調べた。やがてそれを見つけた。

〈月が生まれ変わるように、『新月』ではぬばたま様が生まれ変わる。新しいぬばたま様は次のぬばたま様が来るまでずっと常闇の中に囚われる〉

 ぬばたま様は生まれ変わる? そう言えば誰かもそんなことを……。


 ――ぬばたま様は、生まれ変わるらしい。


 新聞部だ。新聞部で聞いた話だ。あの時確かにそう言っていた。生まれ変わるぬばたま様。何に? 新月で生まれ変わるってどういうこと? 

 謎は尽きなかったが、しかしある予測ができた。「新月」が来ればぬばたま様は生まれ変わる。つまり変化するのだ。変化の時に、何かが好転するかもしれない。それは僅かな希望だった。希望と言っていいのか分からない微々たるものではあったが、しかし光だった。生まれ変わるぬばたま様。果たして生まれ変わった先は……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る