第28話

 屋敷を追い出されたお鈴は願った。

 自身の来世の幸せを。

 そうして次の人生では、あの女に自分がしでかしたことの大きさを知らせてやるつもりだった。

 村中の人に殴られ、罵倒され、非難され、強姦され、石を汚物を投げつけられ、体も心もずきずきと痛む中で、お鈴はかつてのことを思った。

 佶谷寺の大火で寺を追い出された時でさえこんな思いはしなかった。あの時お鈴は頬に火傷を負ったが、それでも強く生きられた。ところがどうだ、今の有様は。さんざんじゃないか。

 ほとんど裸という状態で、お鈴は森の中にやってきた。足を体を引きずって、途中細い木にぶつかって皮膚を切り、顔を腫らして体の各所から血を流しながら、よたよたと歩いたお鈴はついに倒れた。そうして空を仰いだお鈴の脳裏に、あの存在が浮かぶ。佶谷寺の近く。おしゃがれさんから見つかった鏡。それが出て以来、村人たちの間で起こった奇妙な出来事。

「ぬばたま様」と名付けられたそれを、試してみる気になったのだ。

 お鈴は願った。

 自身の来世の幸せを。

 そうして次の人生では、あの女に自分がしでかしたことの大きさを知らせてやるつもりだった。

 だから唱えた。印を結び、その手を高く掲げて……。

「ぬばたま様」

 そうして助けを求めてみると、不思議と気が楽になった。

 お鈴は笑った。

 火傷した右の顔がぴりぴりした。



 あれがもし、水堂さんの亡霊なら。

 私は恐怖した。そして恐怖の根源を分析した。

 分からないことだ。分からないことが怖い。状況が不明であることが怖い。

 あれがもし水堂さんの霊だとハッキリすれば、成仏させる手があるかもしれない。慰める手があるかもしれない。何かできることがあるかもしれない。

 窓の外に見えたあれが水堂さんかどうか、私は考えた。晩御飯も食べずに考えた。

 さすがに娘が食事を抜くと不審だったのだろう。お母さんは「具合悪いの?」と訊いてきた。実際悪いので「そう」とだけ答えて部屋の中で丸くなっていた。何もかもが怖かった。全てが恐怖の対象だった。

 しかしいつの間にか私は、深い眠りの底にいた。恐怖を紛らわすためにベッドで丸くなっていたのが睡眠へと繋がったようだ。翌朝、私は目を覚ますと、自分が制服のまま、お風呂にも入らないで寝ていたことに気づいた。朝六時。私はシャワーを浴びた。

 学校に行くか迷った。行っても何もいいことはない。

 だがずる休みは明らかに「悪いこと」だ。これ以上悪行は重ねられなかった。「悪」がぬばたま様の罰の対象になるのなら、悪いことは極力しないに限る。

 渋々学校に向かった。登校中。話し声が聞こえた。囁き声が聞こえた。噂話が聞こえた。


 ――あいつだ。

 ――あの子だ。

 ――まだなのかな? 


 生徒会長としての信頼は地に落ちていると言っても過言ではなかった。学校はもはや私が統べる場所ではなくなっていた。無法地帯……ではなかったが、私が掲げたいじめの撲滅からは遠い世界にいた。だって実際に私がいじめられているのだから。

 今朝も教室に行くと机に異変があった。それは落書きだった。クラスの連絡事項を書くためのホワイトボード。そこで使われているマジックペンで書かれていた。そう、書かれていた。


 ぬばたま様ぬばたま様ぬばたま様ぬばたま様ぬばたま様ぬばたま様……。


 悲鳴を上げそうになった。けど必死に我慢した。何かに頭を打ち付けたかった。マジックペンだ。そう簡単には落ちない。私は今日一日これを眺めながら授業を受けるのか。苦痛だった。苦行だった拷問だった。耐えられなかった。だから私は机に荷物を置かずすぐさま踵を返すと真っ直ぐ保健室へ向かった。けれど保健室の仁科先生さえ私を歓迎しなかった。

「どうしたの」

 目も合わせない。

「貧血で」

 適当なことを言う。向こうが目を合わせないのだ。大ウソついても見抜けない。

「ベッドへ行きなさい」

「はい」

 素直に従いベッドへ行く。カーテンの先、シーツの上で丸くなりながら考えた。楽になる方法。全てに決着をつける方法。

 死ぬしかない気がした。命を終わらせれば何もかもが消し去れる。終わりにできる。問題は方法だった。ホースで首を吊ろうとしたら何者かに止められた……そう、止められた! あの時のことを思い出す。ゾッとする。あれは何だ。何だったんだろう。もしかして、ぬばたま……。

「やめて!」

 思わずそう叫んだ。カーテンの向こうで先生がびくっと震えた気配を感じたが、先生は私のところに来ないどころか何も言わなかった。もし、もし仁科先生が、この間木山先生が言っていた、「第三者が当事者にぬばたま様のことを話す時は関係者全員で臨まないといけない」を守っているのだとしたら、私に接触してこないのは当然のことのように思えた。みんなでせーの、で行かないと自分自身がぬばたま様に呪われる危険性があるからだ。でもそれは逆に言えば、誰か適当な人物にぬばたま様の呪いをかけて死ねば私からは呪いが離れるということで、つまりそうすればある意味救済に……。

 何を言っているんだ。

 死んだら意味がないじゃないか。呪いが解ける、の成功ルートは私が生存することだ。そうじゃなければ死んで終わらせた方が早い。その「死ぬ」のオプションにぬばたま様をよそになすりつける選択肢が入るかどうかという話になる。

 分からなかった。何が正解か分からなかった。私は疲れていた。何も考えられなかった。

 頭を空っぽにして枕の中に頭を埋める。いつの間にか眠くなってきた。

 私は寝落ちた。



 目が覚めると、かなりの時間が経っていることを自覚した。

 何時だろう。大分寝ていた。枕から頭を持ち上げ周囲を見渡す。オレンジ色の光がカーテンを照らしていた。夕方? 放課後? 首を傾げながら体を起こし、カーテンを開いて保健室の中を見渡す。

 仁科先生はいなかった。壁にかけられた時計を見ると午後四時半だった。完全に放課後だ。ほぼ半日眠っていたことになる。寝すぎてふらふらする頭を首の上に乗っけながらよたよた歩きだす。上履きを引っ掛けながら歩いていたから足元が不確かだった。声を出す。

「先生?」

 返事はない。

 つまり誰もいない。保健委員でさえも。

 ゆっくりと歩いて、部屋の真ん中にやってくる。ふと自分の荷物を確認したが、なくなっていた。誰かが持ち出した。誰かが盗んだ。

 ため息が出る。

 きっと今頃、私の荷物はどこかでゴミ箱にでも捨てられているか、グラウンドにぶちまけられているかしているのだろう。それを回収する自分を思うと堪らなく惨めな気持ちになった。だがもうそうするしかないのだ。荷物の管理を怠った自分が悪かった。あ、そういえばいつだか誰だかが言ってたな。

 ――いじめは防犯意識の問題――

 私には防犯意識が足りていなかったのだろうか。間抜けにも家のドアを開けっぱなしにして外出するような馬鹿な人間だったのだろうか。危機管理の能力が足りていなかったのだろうか。一寸先は闇、という格言を忘れて呑気に歩く馬鹿だったのだろうか。

 どれも違う気がした。私はちゃんとしていた。ちゃんと鍵をかけていたし最悪のケースを想定していた。それでもいじめられた。あの、ぬばたま様とかいう訳の分からない存在のせいで。これは、そう、都会の人間が田舎にやってきてその因習でひどい目に遭う、そんな話なのだ。実際私はこの御滝町に引っ越してくる前はそれなりにいいところに住んでいたし、引っ越す時は少しばかりがっかりしたものだ。高級住宅地と言えば聞こえはいいが駅も遠く周りは林や森や池や川。自然豊か、とも言えるがそれしかない。そうだ。こんなところに引っ越してきたのがそもそもの間違いだったのだ。父のせいだ。親のせいだ。私は悪くない。私のせいじゃない。

 だが、そんなことを考えたところで事態は全く好転しない。

 私は荷物を求めてふらふらと保健室を出た。夕暮れの廊下はとても静かで、私の足音を飲み込んだ。

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