第9話

「なぁ、恋本ぉ」

 西本ちゃんに無理矢理お見舞いに連れていかれた次の日、彼女は学校を休んだ。どうも体調が悪いようなことを言っていたそうだが、私は昨日のことを思うと何だか胃が冷えるような気持ちになった。

 薬井くんが話しかけてきたのは、そんな日の放課後、生徒会室でのことだった。

「最近変な噂聞くんだよ」

「変な噂?」

 その日の見回り日誌をまとめていた私は薬井くんに訊き返した。薬井くんも薬井くんで、この日は生徒会室にいる必要はなかったのに、何故か私が来た頃にはもういた。

「うん。なんかさぁ、音楽室あんじゃん? あそこに黒い人影が見えたって」

「黒い人影?」

 人影なんて大抵黒い……っていうか、影なんだから影でしょ。そんなことを思う。

「他にも学校裏手の昇降口とかよぉ、色んな所で見かけるらしいぜ」

 それに……と、薬井くんは急に口籠った。私は日誌から目を離した。

「それに?」

「お前のいる四組の教室でも見たってよ。吹奏楽部の戸中が」

「うそ、四組でも?」

「ああ、放課後、音出しの練習しに行ったら暗い中にぼやっと見えたらしい」

 そんで気になるんだがよぉ……。

 眠いのか、彼の声は妙に間延びしていた。実際彼は机に突っ伏して、ほとんど寝ているみたいだった。彼は続けた。

「何でもその影、死んだ水堂みたいに髪が長かったみたいだぜ」

 私は努めて鼻で笑う。

「女の子なんて大抵髪が長いでしょ」

「水堂って別格だったじゃん? ほら、髪でブラジャー作れるくらい」

 ひひ、と薬井くんが下卑た笑い声を上げる。私は返す。

「きも」

「まぁでも、そんくらいはあったじゃん?」

 思い返す。どうだったかな。そう言われてみると胸元くらいまで髪の伸びたスーパーロングの子だった気がする。

「特徴似てるらしいぜー」

 私は黙る。日誌に字を刻む。やがて書き終わった頃、顔を上げて薬井くんを見た。彼に告げる。

「そんな不審者いるなら、薬井くんもう一度見回りに……」

 反応がない。

「薬井くん?」

 変な空気が肺を支配したので立ち上がる。それからゆっくり、彼の元へ近づいた。音がしない。何も。

「薬井くん?」

 二度目の呼びかけ。しかし返事がない。

「やく……」

「うわぁっ」

 突然上がった悲鳴に私まで悲鳴を上げそうになる。しかし弾かれるようにして起き上がった薬井くんの口元には光る筋があった。よだれ。よだれを垂らしている。

「やべー、寝てた」

 私の中の風船が萎む。

「脅かさないでよ」

 薬井くんが黙って部屋中を見渡す。それからつぶやく。

「夢か」

「何、もう……」

 ばくばくする心臓を落ち着かせながら椅子に座る。と、私がお尻を下ろしたところで、薬井くんがつぶやいた。

「変な夢だったなぁ」

「……どんな夢だったの」

 訊く義務があるような気がして訊ねる。すると彼はこう返してきた。

「変な女がいたんだよ」

 再び、心臓に冷滴が落ちる。

「女? かどうかも分からない。影みたいな……」

「やめてよ」

 声が震えていた。しかし薬井くんは驚いたような顔をした。

「何で恋本が怖がるんだよ」

「さっきあんな話した後でそんなこと言われたら誰だってビビるでしょ」

「あんな話って?」

「四組の教室で黒い影がどうとか……」

 薬井くんがぽかんとする。それから口を開く。

「何言ってんの?」

「はぁ?」

 ほとんど食い気味に返す。

「あんたが『妙な影が教室に出るらしい』って……」

「……何のこと?」

「ちょっと、ふざけるのも大概に……」

「ああ、でもそう言えば」

 薬井くんが私の言葉に無関心そうにつぶやく。

「夢の中でも、教室だったな」



 もう、力づくでも解決してやる。

 私は動き出した。生徒会長としてどうとかはもう一切関係ない。この妙な噂、妙な伝説に蹴りをつけないと私の学校生活が危ぶまれる。黒い影だか何だか知らないけどどうせ何かの見間違いでしょ。幽霊の正体見たりってやつに違いない。

 そう、ある意味で自分に言い聞かせながら――本音を言うとちょっと怖かった――生徒会室を出て廊下を歩いた。薬井くんには下校するよう言い渡した。彼は何だかぼんやりした顔をしていたが、夕方から見たいアニメがあるだとか何だとかで、真っ直ぐ家に帰っていった。

 そういえば、と気になる。彼が「黒い影」の話をした時、妙に間延びした話し方をしていた。

 そして思い出す。昨日の西本ちゃん……。

 いやいや、何言ってんの。

 私は臆病な私を鼻で笑うとずんずん足音を立てそうな勢いで廊下を歩いた。節電のためか、電気はついていない。あるのは窓から差し込む陽の光だけ、それももう傾き始めている。

 私は真っ直ぐ四組の教室を目指した。ぷわーっと、楽器の音がする。何の楽器かは分からないが吹奏楽の。

 ひっそり、教室のドアに寄る。

 室内は電気が消されていた。必然窓から入る光だけが照らしている。

 黒い影があった。髪の長い、女の子の。

 呼吸が小さくなる。

 えっ、嘘、あれが……なんて思っていたところで、急に。

「恋本さん!」

「うわっ」

 声が出る。振り返った先にいたのは、同じクラスの吹奏楽部、矢岳やたけさんだった。手にはトランペットが二つ。

「どうしたの?」そう訊かれる。

「い、いやっ、どうしたのって……」

「おうい、美紀ー」

 と、矢岳さんが声をかけると、教室の中の黒い影が振り返った。逆光でも分かるくらい色が白い、たまに廊下で見かける女の子が立っていた。

「あの子中橋美紀っていうんだ。私と同じトランペット! 一組の子だよ」

「あっ、そう……」

「美紀ー、トランペット借りてきたよー」

「ありがとー」

 私は弾けそうな胸を抑える。

 びっくりさせないでよ、もう……。


 結局、黒い影の噂については何も分からないまま終わった。

 西本ちゃんと薬井くんの妙な感じも相変わらず……。

 ただ、二人とも。

 次会った時はけろっとして元通りだった。

 別段変わりはないはずなのに、その平穏が私には妙に、不気味に感じられた。

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