呪い

第8話

「奥様、やっぱ病気じゃなかと?」

「病気って、何の病気かや」

「そら、知らへんけども……でも、あの様子はどう考えても……」

 暗い廊下。女中たちがひそひそ話す。銘々手には雑巾や箒。どうも掃除の最中におしゃべりにうつつを抜かしているようである。すると、それを聞きつけたかのように、この家の長が姿を現した。どうやって足音を消したのだろう、と女中の一人は思った。しかしそんな女中の頭上から、怒鳴り声は降ってきた。

「こらっ、戯言抜かしている暇があったら仕事をしないかっ」

「ひっ、旦那様」

 女中たちが蜘蛛の子を散らしたように解散する。

 その様子を見て、長は思う。この頃女中たちがたるんでいる。いや、何かに怯えている。あの女を追い出してから、この家はどうにも様子がおかしい。

「たま……」

 それは妻の名前だった。このところ妻は体調不良を理由に奥の部屋から出てこない。声をかけてもか細い声で「お許しください」と返してくるだけで、体がどう悪いのか、具体的に何を許してほしいのか、さっぱり分からなかった。医者に見せようとしたが、当の医者が村を襲った飢饉で死んだとか何だとかで――長は自分の村のことなのに何も把握していなかった――妻を治療させる術がなかった。できることと言ったら、家にいる者の中で最年長、馬小屋の吉三郎に意見を求めることだけで、その吉三郎も、この頃歳で頭がいかれたのか「ぬばたま様……ぬばたま様……」としか言わない。

 ぬばたま様と言えば、幼い頃遊んだ手毬唄に出てくる神様とも妖怪ともつかない何かのことだが、果たしてそれが何を意味するのか、長にはさっぱり分からなかった。ただ知っていることは、ぬばたま様と言えば墨汁のように黒い……。



 ぬばたま様。

 結局よく分からなかった。新聞部からの帰り道。私は生徒会室を目指した。

 この日は特にやることはなかったのだけれど、生徒会室に行ってみると副会長の西本愛奈ちゃんが掃除をしていた。私は「ありがとう」と言って手伝った。

 西本ちゃんが箒で集めた埃をちりとりで受け止めていると、急に彼女がつぶやいた。それは何だかいきなり降ってきた雨みたいな言葉で、私の頭上から降ってきた。

「合阪さん……」

「合阪さん?」

 訊き返す。しかし西本さんは続けた。

「お見舞いとか、行かなくていいかな」

「お見舞い?」

 急な提案に私は驚いた。しかし西本ちゃんは続けた。

「だってほら、生徒会として……」

「生徒会だからって生徒一人のお見舞いに?」

「うん。だって、私たちいじめ撲滅を掲げてるし……」

 いじめ撲滅と今回の合阪さんの件がどうつながるのか私には分からなかった。しかし西本ちゃんは、ぼんやりと目の色を淀ませて続けた。

「合阪さんのお見舞い、行った方がいいと思う」

 はぁ。

 私がぽかんとしていると、西本ちゃんは壁の時計を見て、「今からなら間に合うかも」と急にテンションを上げてきた。箒をしまい、私の手からひったくるようにしてちりとりを奪い、ゴミを手早く捨ててちりとりを掃除箱にしまうと、それからカバンを持って、私に促してきた。

「行こう」

「え、ちょっと待ってよ」

「行こう」

「えっ?」

「行こう」

 そうして私は、半ば引きずられるようにして病院に行くことになった。

 御滝中学校から、自転車で五分くらいの距離。

 御滝市立中央病院まで。



 受付でお見舞いに来た旨告げると――告げたのは西本ちゃんだが――看護師さんは微笑んで合阪さんの病室を教えてくれた。私たちはてきぱきと歩いて――これもどちらかと言うと西本ちゃんの方がてきぱきしていたが――その病室に向かった。廊下で、私は「お見舞いに来たのに手土産もないのか」などということを思ったが、西本ちゃんの顔色を見るにそんなことを気にする必要はなさそうだった。

 果たして病室に着いた。西本ちゃんが扉を開けた。

「合阪さん」

 と声をかけると、ベッドの上で丸まっていた何か――合阪さんががばっと顔を上げた。彼女は、せっかく大きなベッドが割り当てられているに、枕を両手と両足で抱えるようにして縮こまっていて、虐待を受けた小動物みたいにぶるぶる震えていた。ばらけた黒髪が顔にかかっている。その線の隙間から見えた顔は、歪んでいた。西本ちゃんがそっと彼女のベッドの傍に近づいた。すると合阪さんが叫んだ。

「こっ、来ないでっ」

「大丈夫だよ、合阪さん」

「来ないで……お願い、来ないで……」

「大丈夫。怖がらなくていいよ」

「来ないでぇ……来ないでぇ……」

 何だか見ていられなくて私はつぶやいた。

「そんなに怖がらなくても」

 しかし合阪さんは両手で耳を塞ぐと、また叫んだ。

「許してっ!」

 許して? 

 彼女の口から出た言葉が意外で、私はオウム返ししそうになった。許してって、何を許してほしいのだろう……そう考えて思い至る。

 この子、水堂さんをいじめたんだよな。

 自分の身に降りかかった災難を、もしかしたら水堂さんの祟りか何かだと思っているのだろうか。そうだとしたら、いい気味だ……なーんて、思ってしまう自分が十パーセントくらいいたけど、残りの九十パーセントの私は善良な生徒会長だったので、優しく声をかけた。合阪さんに、思いを込めて。

「大丈夫、合阪さん。もう怖くないよ」

「いやぁ……いやぁぁ」

 合阪さんは聞き入れない。

 しかし私が、ため息をついて一歩下がろうとすると、彼女は続けざまに叫んだ。それは聞き捨てならないセリフだった。

「ぬばたま様ぁ……っ、来ないでっ! 来ないでっ!」

「ちょっと!」

 いきなり背後で病室の扉が開いた。そこに立っていたのは看護師さん――受付で私たちに対応してくれたのとは別の――だった。彼女は険しい顔をして近づいてきた。

「面会謝絶ですよ! 何してるんですか!」

「えっ、面会謝絶って、さっき……」

「直ちにこの部屋から出ていってください!」

 そうして私たちは半ばつまみ出されるようにして、合阪さんの病室から出た。ぽかんとしている私の隣で、西本ちゃんが、ようやく思い出した、というような顔になって、つぶやいた。

「帰ろうか」

「はぁ」

 まるで嵐みたいな、激しい言動の起伏に驚きながら私は彼女の後に続いた。病院を出た頃になって思った。

 この子って、こんな子だっけ? 

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