第17話

 なぜ再びぬばたま様の名前が出てきたのか、分からなかった。特に何かがあったわけでも、それこそ水堂いじめの主犯三人に何かあったわけでも……。

 と、思っていたのだが。

 私の生徒会としてのアンテナにその情報はかかってきた。又聞きの又聞きみたいな情報だが、曰く。

 昼川さんが最近何者かにつきまとわれているらしい。

 昼川さんはそのことについて担任の先生に相談していて、相談したこと自体は公にはされないようになっているらしいが……私たち生徒は、その気配というか、ある種の「非日常」を敏感に肌で感じ取っていた。昼川さんが何者かにつけ狙われている一件は瞬く間に生徒に知られることになった。そうして私のところに依頼が舞い込んできた。

「恋本」

 学年主任の是枝先生だった。

「学校内に不審者がいないか、目を光らせてほしい。もちろん、見つけたとしても自分から接触しに行くなよ。必ず先生に報告すること。いいね」

「はい」

 そういうわけで、放課後の校内巡回が強化された。それはもともと、いじめ撲滅を願って行われたもののはずだったが……いつの間にか趣旨がすり替わっていることに、私も他の生徒会も気づいてはいた。だが、口出しはしなかった。口出しする意味はない気がしたし、そもそもの趣旨からそこまで逸脱しているわけでもなかった。だから黙っていた。三人とも黙っていた。

 ことがことだし三人で回るか、という話もあるにはあったが、しかしこの頃生徒会には新しい仕事が舞い込んでいた。風紀委員と連携して朝の挨拶活動ついでに生徒の身だしなみを検査するだとか、リサイクルキャンペーンと称してペットボトルを集めるだとか。仕方がないので、校内巡回は一人一人当番を決めて回ることになった。生徒会長だし、私が多く回ろうかという話はあるにはあったが、公正を期した。私たちは三人それぞれ順繰りに回ることにした。

 その人影の噂を聞いたのは、そんな見回り当番が一巡し、四回目の巡回、つまり私の当番になった日のことだった。

「そういやさ」

 薬井くんがペットボトル分別用のビニール袋を広げながらつぶやく。

「不審者、ってほどでもないけど、最近学校で妙な人影見るよな」

「ちょっと、それどういうこと?」

 私は食いつく。そのまま続ける。

「不審な人を見かけたら連絡しろって言ったのに」

「うーん、不審、ではないんだよね」

 私の背後から、いきなり西本ちゃんが続いた。彼女は首を傾げていた。私は訊ねた。

「あなたも見たの?」

「うん。人影……きゅっきゅっ、っていう足音がしてたから、多分上履きを履いていて……」

「スカートみたいなひらひらもあったから、多分制服なんだよな」

「制服?」

「うん」

 薬井くんが無関心そうに頷いた。

「多分、うちの生徒だよ」

 私は引っ掛かりを口にした。

「うちの生徒なのに怪しいって思ったの?」

 すると薬井くんと西本ちゃんが顔を見合わせた。それから、事も無げに……何ということもない風にこう続けた。

「だって、黒かったもん」



 繰り返すが、その日は私の見回り当番だった。

 放課後の学校って何でこんなに静かなんだろう。飲み込まれそう……なんて、柄にもなく詩的なことを思って歩く廊下は、何だか綺麗だった。青春という言葉が似あう景色があるとすれば、きっとこれのことだろう。

 だが、どんなところにも影があるように。

 廊下の隅。誰も使っていない教室。トイレ。階段。

 暗闇があった。暗いところがあった。明かりの差さないところがあった。

 そしてそう、ああいうところで……。

 問題というのは起こる。トラブルというものは起こる。いや、起こらないまでも、それの原因となるものがある。例えばポイ捨てされたゴミ。例えばめちゃくちゃにされた机、例えば脱ぎ捨てられたジャージ。そういうのが悪の温床になる。私はそれを知っている。そう、本来の見回りは、そういったいじめや不良行為の原因になるものを排除することが目的だったのだ。それが何で、いつの間にか、不審者探しなんか……いや、不審者もトラブルの原因ではあるけれど。

 そんなことをぶつくさ口の中でつぶやいている時だった。

 ふとそれを感じた。

 針で細かく突かれるような不快感。毛羽立ったセーターを着た時のようなちくちく感、皮膚の下が泡立つような悪寒、そうしたものが、ぞわぞわっと背筋を伝った。私は振り返った。それは明らかに背後から来ていた。

 そして、見た。

 廊下からさっと消える影を。教室の中に入っていく影を。真っ黒な人。いや、暗がりの中で見たから黒く見えただけで、実際はただの影。黒のグラデーションがついただけの、うちの女子生徒の人影だったのだが――スカートを履いていたから間違いない――、しかし鮮明な黒さで私の目には映った。私は急ぎ足でその影が消えた教室へ向かった。

 二年一組。

 数学の坂下哲丸先生の受け持ち。坂下先生は私が一年生の頃の担任で、転校生の私にもよくしてくれたから覚えている。若い先生で、「俺は経験不足だけど……」が口癖だった――そんなことを、教室に入る直前、思い出す。

「誰?」

 声を上げながら引き戸を開ける。私の声にか、それともドアが開いた音にか、驚いて震える気配があった。それは小動物みたいで、あるいは跳ねるスーパーボールみたいで、小心さと躍動感が同居している、とても臆病な気配だったのだが……。

 その気配を、放っていたのは。

「ゆ、許して……」

 怯えた顔で、教卓に縋りついていた。

 二年三組。水堂優理香を自殺に追いやった、いじめの主犯格。

 スカートからジャージ姿の脚を生やした、不良少女の昼川さんだった。

「何してたの?」

 私は教室の入り口から、教卓の傍で震えている昼川さんに話しかけた。彼女はつっかえつっかえ話した。

「ぬばたま、ぬばたま様が……」

「ぬばたま様?」

 久しぶりにハッキリと聞くその単語に、私の胸の中の何かがざわついた……が、とりあえずこらえた。私が黙っていると昼川さんが続けた。

「ぬばたま様につけ回されるの」

「つけ回される?」

 そう、私が訊いても、昼川さんは唇を噛むだけだった。私は続けた。

「放課後のこんなところで何をしていたの?」

 と、彼女の手を見る。そこには手鏡があった。掌サイズの、丸い、かわいらしい。大人の女性がお化粧をチェックしたい時に使いそうだが、我が校は……。

「化粧は禁止です」

 私が近づくと昼川さんはびくりと体を震わせた。私は手を差し出した。

「鏡、没収します」

 昼川さんは震える目線で私を見た。まるで許しを請うようだった。

 が、やがて意を決したように……。

 私に割れた鏡を手渡してきた。私はそれを受け取ると昼川さんに「気をつけて帰ってね」とだけ告げて教室を出た。



「不審な人影を追いかけたら昼川だった?」

 職員室。担任の木山先生と学年主任の是枝先生に報告した。校内で不審な人影を見つけた。正体は昼川さんだった。彼女の手には手鏡があった。隠れて化粧をして、どこかで男の人と会っていたのかもしれない。憶測に過ぎないが、証拠から考えられる線として妥当ではある。

 そのような報告をすると、是枝先生は困ったような顔をして「まぁ、意外とそういう話なのかもな」とつぶやいた。それに木山先生が続いた。

「集団パニックみたいなのが起きているのかと思っていてな」

 木山先生は夕方になって伸びてきたのであろう髭を弄った。

「このところ学年全体がそわそわしているというか」

 え、と私は返した。

「校内の見本になるくらい立派な学年だって……」

「うん。そうなんだが」

 木山先生は是枝先生の顔を見た。すると是枝先生が木山先生の言葉を引き取った。

「自主的に規律を守っているというよりかは、何かに怯えて規律を守っているみたいに見えるんだよな」

「何かって……」

 と、私が言いかけたところで、いきなり背後から声が飛んできた。それは野田山先生の野太い声だった。

「鏡!」

 木山先生も是枝先生もびっくりする。しかし野田山先生は「ああ……」と何だか感じ入るような声を出してから、続ける。

「割れた鏡ですね……」

 ゆっくりと近づいてきた野田山先生に、是枝先生が眉をひそめながら訊ねる。

「ええ、鏡ですが」

「二年生と言えばぬばたま様の噂が流行っている学年ですな」

 野田山先生は是枝先生に構うことなく続ける。

「ぬばたま様、鏡、よろしくない」

 ぞわっと胸の中で何かが沸いたので、私は野田山先生に訊ねた。「何がよろしくないんですか」と。

 木山先生も是枝先生も「またか」という顔をしていたので、野田山先生のこのオカルト好きはもしかしたら教師の中でも有名なのかも――そして迷惑なのかもしれないが、しかし野田山先生は真面目な顔でこう告げた。私にとっては興味深い話だった。

「ぬばたま様のことを調べるのには二通りあってな……」

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