第16話

「恋本」

 ミディアムカットにした翌日の放課後、担任の木山先生に話しかけられた。先日話しかけられた時とは違う、少し明るい表情だったので、私はいい話を期待した。そして先生は私の望む話をした。

「今期になってから、この学年でいじめや不登校の相談が減っているそうだ」

 それは、私の活動が功を奏しているという知らせだった。私は嬉しかった。

「本当ですか」

 先生もにっこり笑う。

「ああ。この調子で頑張ってくれよ。恋本のおかげで、校内の雰囲気がよくなっているぞ」

「ありがとうございます!」

 ハキハキした声でお礼を言うと、先生は小さく頷いて去っていった。私はカバンに荷物を詰めるとうきうきしながら下校した。やった。これは嬉しいことだ。私の活動が実を結んだ。やった。やった。私は踊り出しそうだった。

 いいことは立て続けに起こった。

 学年集会。多くの場合、それは何か学年で取り組まなければいけない課題などがあった場合――例えば、そう、それこそいじめ問題や不登校問題なんかがあった時に開かれるものだった。

 何事だろう。そう思ってひやひやしていると、学年主任の是枝先生が、集会場となった体育館のステージ上に立ってこう話した。

「生徒会長恋本の活動のおかげで、学年単位ではなく学校単位でいじめが減った」

 それはまたもや嬉しい知らせだった。私はその場で飛び上がりそうになった。

「模範的な学年として昨今類を見ない例とされている。みんなもこれに甘んじることなく、模範学年とその生徒としてふさわしい態度をとるように」

 はぁい、と間の伸びた返事が体育館に響いた。是枝先生は満足そうに頷くと壇上を下りた。私は興奮していた。

 順風満帆だった。髪を切ってからいいことづくめだ。きっと髪の毛と一緒に悪いことを全部落としてきたんだ。

 実際、ぬばたま様の話ももう聞かなくなったし、私自身興味を失くしていた。ぬばたま様。そんなのあったなぁ。その程度の感覚になりつつあった。

 そんなある日の昼休み、いつもの通り三隅ちゃんと過ごしていると、彼女が「最近芙蓉ちゃん元気だね」と笑いかけてきた。私は嬉しくて、笑い返した。

「ほら、いいこと続きで」

「そっか」

 と、たまたま馬鹿騒ぎをしている男子たちの声が飛び込んできた。ぎゃはは。ぎゃはは。うるさいなぁ。そう思ってしかめ面をしていると、三隅ちゃんは唇を噛んで俯いていた。おや。おやおや。おやおやおや。これは何かあるな。そう思って、私は彼女に話しかけた。「どうかした?」と。

「ううん。別に」

 とは、言っていたが、やがて彼女は意を決した顔になると、こう訊ねてきた。

「ねぇ、芙蓉ちゃんは好きな人とかいる?」

 びっくりした。好きな人……好きな人、ねぇ。

「うーん。まだそういうの、よく分からないかな」

「そっか……」

 三隅ちゃんが再び俯いたのを見て、私は訊き返した。

「いるの?」

 三隅ちゃんは一瞬間を置いて頷いた。

「サッカー部の早坂くん」

「早坂」

 うっそ。あの頭悪そうな奴? 

「ほら、その、彼、かっこいいじゃない? いつも周りの人を笑わせているっていうか、笑顔で明るいっていうか」

 ふうん。そう思った。そんな程度で、好きになるのか。

「そだね」

 しかし私は笑顔を作って頷いた。三隅ちゃんは私の大事な支援者だ。

 彼女は続けた。

「ねぇ、芙蓉ちゃんならどうする? 早坂くんに話しかけるべきかな。ほとんど話さない人に声をかけられても、迷惑かな」

 まぁ、迷惑だろうな。

 しかしそうは言えず、私は首を傾げる。

「どうだろ。何か感触はないの?」

「わ、私と目が合うと笑ってくれる……」

 笑顔にも種類があるよ。

「挨拶すれば返してくれるし……」

 まぁ、その程度は犬でもできるよね。

「ぶつかりそうになったら避けてくれる」

 正面衝突する馬鹿はいないでしょ。

 総じて、下らなかった。何だ。人を好きになるってこの程度のことか。しかしまぁ、そんな態度をとるわけにもいかないので、私は相談相手としてふさわしい、熱心な聞き役に徹した。やがて一通り早坂くんへの想いを話した三隅ちゃんは、晴れ晴れとした顔でこう告げてきた。

「ありがとう。芙蓉ちゃんに話したらすっきりした気がする」

「そっか」馬鹿馬鹿しい。「よかった」

 いわゆる年頃、というやつなのだろう。私たちの年齢は。

 これからこんなのが増えていくのか、と思うと、何だかうんざりした。他人なんかどうでもいいでしょ。私に害さえ与えてこなければ極論その日踏みつぶした蟻と同じ存在でしかない。

 放課後、私はため息をついた。こんなのばかりに、なっていくのか。



 赤須さんはまだ足を引きずったままだったが松葉杖は二本から一本に減った。合阪さんと違い、彼女には同情が集まることはなく、彼女はどんどん孤立していった。そんな赤須さんを、私は気にかけた。声をかけることもあった。

 しかし、彼女は……。

 怯えるのだった。私が近づいた時、私が視界に入った時、私が声をかけようとした時、振り返って、教室やトイレに逃げ込んで、慌てた様子で、私から離れていく。照れているんだと思った。優しくされた経験がないから、うろたえているのだ。

 それでもめげずに私は赤須さんに近づこうとした。放課後、屋上に続く階段や誰も使っていない教室でぼんやりしている彼女を探して、うろうろすることもあった。もちろんこれは校内の巡回も兼ねていた。そうして何度か赤須さんを捕まえることに成功すると、他愛もない話をして過ごした。彼女は困ったような顔をしていた。私はその顔が小気味よかった――だって、彼女はいじめをしたのだから。こうなるべくしてなったのだから。そんな彼女に救いの手を差し伸べるのは、私だけなのだから。

 しかし、そう、この頃からだった。

 トイレに行った時。

 放課後の廊下を歩いている時。

 雨の日の登下校。

 じりじりと、焼きつく何かを感じるようになった。それは熱線のようでもあり、何かちくちく刺してくるような感覚でもあり、心を不安にする何かだった。

 やがてそれが、誰かの視線なのではないかと察するのにそう時間はかからなかった。気味悪く思った。僅かに恐怖心さえ抱いた。だが、誰がどこからどんな視線を送っているのか、特定することは難しかった。不快だった。誰かが私に、よくない感情を抱いている。



 靴箱の中に、クモの死体が転がっていた。

 ちょっと大きいのが二つ。縮こまった足が虚空をつかんでいた。私は小さな悲鳴を上げた。

 登校した時の机がちょっとずれている気がした。些細な変化だったが、不気味だった。

 掃除から帰ってくると、私のだけ机上に上げた椅子が下ろされていなかった。不思議に思いながら椅子を下ろすのだが、何度も続いたので次第に故意に行われているのだと悟った。

 いじめに近い何かだった。まさか、そんな……と肝を冷やしたが、いつも仲良くしてくれる三隅ちゃんや、他のクラスメイトも私に悪意を向けることなく、普通に接してくれる。まとわりつくような視線を教室で感じることはなかったし――だが不思議と放課後の誰もいない教室では感じた――不快なちょっかいをかけられることも、認知する範囲で悪口を言われることもなかった。

 それに、いじめとも言い切れないラインの不快現象だった。クモくらい靴箱の中で死んでいるかもしれないし、朝方、ふざけて走り回っている男子が私の机にちょっとぶつかっただけかもしれないし、掃除の時にたまたま椅子を下ろすのを忘れていただけかもしれない。そう、私の考えすぎかもしれない。

 だが……だが。

 心の中に火傷のようなひりひり感があった。もしかして、誰かに嫌われているのではないか。そう思った。生徒会長として活躍したから悪目立ちしたか。ぬばたま様について訊いて回ったことがまずかったか。原因を色々考えた。だが答えは出てこなかった。そもそもが、いじめとも言い切れない何かだ。先生に相談するのも変な話だった。こうして私の心は、ゆっくりゆっくり疲れていった。


 ――ねぇ、さ。

 ――何? 

 ――あれ、ぬばたま様じゃない? 

 ――ああ、本当だ。


 そんな噂を再び聞くようになったのは、長期休みが近づいたある日のことだった。ひさしぶりに聞くその名に、私の中で何かが爆ぜた。

 それは不気味な化学反応だった。私は息を止めた。

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