第15話
「ぬばたま様について知りたいんだな?」
トイレの鏡の前に立つなり赤須さんは杖をぎゅっと握ったままこちらを睨んできた。緩く巻かれたミディアムヘアがふらりと揺れる。私は頷いた。
「崖の下の鏡までは調べた」
経過を告げ、必要な説明までのショートカットを図る。
「でもぬばたま様の正体が何かまでは……」
しかし赤須さんは表情を険しくした。
「お前、ぬばたま様が何か分かってないのにぬばたま様に悩まされてるのか?」
「え? うん」
そう問われて、思い出す。
あれ、私何で、ぬばたま様が気になり始めたんだっけ……。
全く同じことを赤須さんが訊いてきた。
「何でぬばたま様を知ったんだ?」
お前転校生だろ? と赤須さんが私の足下を見る。私の上履きは、他の御滝中生とはちょっと違う。前の中学の指定上履きだったから、爪先に学年色が出るのではなく靴の縁に学年色が出る仕様になっているのだ。たまたま御滝中での学年色が前の学校と同じ赤だったから特に買い替えの必要はなかったのだけれど、私のこの上靴は、私がよそものであることの証でもある。
「合阪さんがぬばたま様のせいでひどい目に遭ったって聞いて……」
と、私は記憶をたどりながら話す。
「みんながぬばたま様ぬばたま様って言うから何のことか気になって……」
はぁ、と赤須さんがため息をつく。
「学校の怪談ってあるよな? お前が前いた学校でもそういうのなかったかよ」
「あったようななかったような……」
屋上まで続かない階段、なんてのはあった気がする。実際建設途中か何かで放置された階段みたいで、行く先が壁、それ以上はどこにも行けない階段というのが前の学校ではあった。
でもそれはどちらかというと「七不思議」程度の話で、怪談だとかオカルトだとか、そういうのには繋がらなかった。
「まぁ、とにかく、ぬばたま様ってのは御滝中に伝わる怖い話なんだよ」
赤須さんの強引なまとめ方に、私は小さく頷く。そこまでなら知っている。
「具体的にどんなことをしてくるの? 罰の神様ってことは知ってるけど……」
「親指をこう……」
「印の話も知ってる」
「じゃあ、話は早えな」
赤須さんはぐい、と松葉杖に身を任せた。
「呪いなんだよ。死ぬ間際に呪いたい奴のことを思い浮かべて印を結んで、死ぬと契約が完了する。契約すると……」
「契約すると?」
「ぬばたま様になれる」
「ぬばたま様になれる」
そう、繰り返した私の脳裏で、あの話が浮かぶ。
水堂さん。印を結んで死んだ。
「じゃ、じゃあ今あちこちで聞くぬばたま様の正体って……」
「水堂かもな」
赤須さんは苦い顔をしながらつぶやいた。
「くそ、勝手に死にやがって、あいつ……」
そう、目線を横に流す。
「じゃ、じゃあ、合阪さんや赤須さんがひどい目に遭ってるのって、水堂さんがぬばたま様になったから……」
と、言い終わろうとしたその時。赤須さんが目を見開いた。それは手洗い場の鏡を見ていた時の出来事で、彼女は鏡をハッキリ見据えて、それから口を歪めた。見てはいけないものを見たような顔だった。
「いいか」
赤須さんの、消え入るような声だった。
「もう手遅れだ。水堂はぬばたま様と契約しちまった」
そう言われても、そっか、としか思えなかった。だって呪われてるのは目の前のこの人と、合阪さんと、そして昼川さんで、私ではなさそうだったからだ。
だからぎょっとした顔をしている赤須さんのことがよく分からなくて、私は彼女の目線の先の鏡を見た。なんてことはない普通の鏡で、私と赤須さんが映っていた。
彼女は続けた。
「もうだめだ。手遅れだ」
よたよたと、怪我した足を引きずって歩き出す。
「手遅れだ……手遅れだ……」
「ちょっと」
私は赤須さんに声をかける。それから、右手を差し出す。
「肩、貸そうか?」
しかし赤須さんは顔をこわばらせたまま首を横に振ると、急ぎ足でトイレを出ていった。
去り際の、彼女の目つきが気になった。
何だかとんでもないものでも見るように、私の手を……。
*
「はい、この直線の式、求められる人」
傾き-5、切片7。
y=ax+bの式に当てはめる。a=-5、b=7。
挙手する。先生が私を当てる。
「y=-5x+7です」
「正解。どうやって求めた?」
「y=ax+bの式に、a=-5、b=7を当てはめました」
「素晴らしい。ではこのaのことを?」
「傾き」
「bは?」
「切片」
「それぞれ代入すれば答えられるな」
「はい」
「いいか、こういう風に、まず定型に置き換えて、分からない部分を文字に置き換える。後は分かっていることを文字の中に入れて求めれば……」
女子には珍しい、と言われるけれど。
私は割と数学が好き。何でも理路整然とまとまって、真っ直ぐ道が見える数学が好き。国語や社会も嫌いじゃないけど、好きの度合いで言うと数学が勝つ。もっとも数学よりも好きな科目もあって、英語がそれなのだけれど、同じクラスに帰国子女の子がいるからどうしてもテストの点数では勝てない。だから、私は数学で攻める。
分からないものを文字で置き換える。この過程が私は好きだ。「分からないものを分からないとする」。この潔さが好きだ。xやy、aやbというブラックボックスを作ることで何にでも対応できるようにする、という点もいい。逆に言うと、xやy、aやbは、何にでもなれる。
もしかしたら、私たち中学生はまだこの文字なのかもしれない。不確定な文字「x」。あるいは「y」、あるいは「a」、あるいは「b」。これから何にでもなれる。何にでも変われる。不思議で不定形なものであるからこそ、将来は、その先は、何にでも……。
そんなことを考えながら数学の授業を受ける。
頭の中はいくらかさっぱりしていた。
ぬばたま様の正体、ぬばたま様が何をするか、漠然と分かったからだ。
水堂さんの亡霊。水堂さんの怨念。それがあの三人を、いじめっ子たちを苦しめているだけなのだ。それだけなのだ。それだけの話だった。
机に頬杖をついていると、鼻歌を歌いそうになっている自分に気づいた。妙に、浮かれちゃって。自分で自分がおかしかった。今まで悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
……ふと、思い出す。
赤須さん。私のことを、何だかとんでもないものでも見るような目で見て去っていった子。
何よ。助けてあげようとしたんじゃない。
そう、手元を見る。ペンを握った手。お気に入りのペンだ。転校する時に、あっちの友達にもらった……。
あ。
人差し指の先を見て思う。
内出血、ひどくなってるな……。
*
髪が伸びてきたので切りに行くことにした。土曜日の夕方。適当に調べた美容室に、一人で行った。だらしなく伸びた髪を、顎の下あたりで切り揃えてもらうことにした。赤須さんじゃないけど、ミディアムヘアだ。
鏡の前に案内されて、ちょきちょきハサミを入れてもらいながら、美容師さんと雑談した。口の上手い人で、もともとあまり雑談をする方じゃない私でもするする話せた。
「部活は何かしてるの?」
「いえ、帰宅部で」
「暇じゃない?」
「生徒会をやってるので」
「すごい。生徒会長?」
「ええ、まぁ」
照れたように笑うと、美容師さんが続けた。
「この辺ってことは、御滝中?」
「はい、そうです」
「あそこも変な噂聞く学校だからなぁ」
私は小さく笑いながら訊ねる。
「変な噂って言うと?」
美容師さんが答えた。
「ほら、怖い話とか」
私は今度こそ笑い出した。
「迷信ですよ」
「まぁ、そうだけどねぇ」
と、美容師さんが一瞬、私の傍を離れた。
その時だった。
私の後ろには、店の入り口があって、店の入り口の向こうには、歩道が左右に広がっていて、その歩道の向こうには、二車線の車道が一本あって、その車道の向こうには、こちら側にあるのと同じような歩道が一本あるのだけれど、それはその、向こう側の歩道にいた。
夕闇の中。ガラスも鏡みたいにこちらを映し出した時間帯。
ぼんやり浮かぶ店内の様子の、その向こうに見えたのは。
真っ黒い……そして髪の長い……人影……。
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