願い
第14話
「大火があったのは……」
吉三郎が唐突に、歯の抜けた口でそんなことを訊いてくるから、一人じゃぶじゃぶ洗濯をしていた女中のお紅は眉をひそめた。
「何ですか急に」
しかし吉三郎は藁を
「はて、大火があったのは……」
「大火大火って……」
と、お紅は思い至る。
「
「おお、それじゃそれじゃ」
吉三郎は大袈裟に頷く。
「あの後この屋敷に来た者がおったの」
と、お紅の顔から色が引く。
「……その女の話、しない方がいいですよ、吉三郎さん」
しかし吉三郎は不気味に笑うだけだった。ひひひ。ひひひひ。
「あの女が何だって言うんです。旦那様のお金に手を付けてこの屋敷から追い出された人ですよ」
「ほほ、ほほ」
吉三郎は続けて笑った。
「お前奥様を見たかい」
吉三郎の問いにお紅は頷く。
「この頃ようやくお部屋から出るようになられて」
またしても吉三郎はにやっと口の端を歪ませた。
「見たかい。奥様の……」
「奥様の?」
「……笑うところ」
お紅の顔からさらに色が引いた。じわじわと噴き出る汗の雫を、唇の端で舐めたような、じゅっと音の立ちそうな表情をしていた。
「……おかしいとは思ってたんだよ」
お紅の口調が乱れる。
「まさか……じゃあ、まさか」
吉三郎がにたりと笑う。
「そのまさかさね」
お紅の沈黙に吉三郎は表情を変えない。
「お前さんはこの村の出だったね」
「そうですよ、吉三郎さん」
「わしもなんだよ」
しばしの沈黙。
やがてそれを破ったのはやはり吉三郎だった。
「
「おしゃがれさん……懐かしいねぇ」
お紅が含んだように笑う。
「先の災害じゃあたしゃ死ぬかと思いましたよ。まだ六つか七つの頃でしたが、命を持っていかれると、そう思いましたね」
「わしもさね。あの頃、わしはまだ十になったばかりだった」
「……意外と歳が近いんだねぇ」
やだねぇ、と頬に手を当てたお紅が続けた。
「あの災害でおしゃがれさんができて、聞くところによるとおしゃがれさんにあった洞の中から……」
「ぬばたま様」
「なるほど」
お紅がからりと顔色を変える。
「道理で佶谷寺から」
*
「君」
祠を覗いていた私の背後から急に声をかけてきたのは、ジャージ姿のスキンヘッドだった。いきなりの個性に、私はちょっと身構えた。
「な、何か」
うろたえていると、スキンヘッドの男性が渋い表情をしながら訊いてきた。
「御滝中の子かね」
「そうですが」
すると男性はますますまずそうな顔をした。
「本当に御滝中の」
「え、ええ」
「ここには来ない方がいいかと思うがねぇ」
と、男性は足元をじゃりっと鳴らした。
「親御さんに言われなかったかい」
「何も……」
自分が転校生であることには敢えて……というか、触れるタイミングがなかった。スキンヘッドのおじさんは困った顔をしたまま続けた。
「まぁ、このご時世にこんな話をする方が不自然かもしれんな」
「はぁ」
得体の知れないおじさんに、得体の知れない話。
私はちょっと困惑した。何この人、不審者? 変態? こんな時間にこんな格好でうろついて、見知らぬ女子中学生に声をかけるなんてまともな人じゃないよね。大声、出そうかな。そう思っていた時だった。
「や、失礼。私は佶谷寺の住職なんだが……」
聞いたことのあるお寺だった。確か御滝町の北にある、盆踊りなんかのお祭りの会場にもなるお寺……あそこの、住職さん。
「この崖は正式には御滝断層と呼ばれているんだがね。結構立派な断層で、地質学者なんかも研究に来たりするんだが……この崖の、別名は知っているかい?」
急な質問に私は困った。崖の名前? 何それ。御滝断層っていう名前自体初めて知ったし。
私が首を横に振ると、住職さんは静かに告げた。
「おしゃがれさん、と言うんだよ」
「おしゃがれさん」
「随分昔に、地震があった時にできた断層でね。地面が割れて剥き出しになる時、野太いしゃがれ声みたいな音がしたことから、『おしゃがれさん』と呼ばれているんだ」
「はぁ」
話が見えてこないので、私がいぶかしい顔をしていると、住職さんは続けた。
「断層ができた時に、崖の下から洞が見つかってね」
ふと、私の中に冷たい雫が落ちた。
「今、お前さんの後ろにある洞が、それなんだがね」
振り返る。『むばたま碑』。穴。ぬばたま様。
「その洞から鏡が見つかったみたいでね。真っ黒な鏡だったから、かつてこの辺りに住んでいた人たちは『ぬばたま様』、『ぬばたまかがみ』と呼んだんだが……」
えっ、まさか、そういうこと?
急な符号に私は拍子抜けした。何、それ。ぬばたま様って、古い地層から見つかった鏡のこと? 穴から見つかった、発掘品?
きっと、笑みが漏れていたのだろう。
今まで自分を悩ませていたものの正体が、学校の間でだけ根付いていた伝説の正体が、古いだけ、歴史があるだけが理由で妙な尾鰭がついた、ちっぽけな鏡のことだと知ったことへの安堵感が、顔に出ていたのだろう。
しかし住職さんはそんな私の顔を見て、また困ったような顔をすると、こう続けた。
「何があってここに来たのかは知らないが、御滝中の子がここに来ると、よくないことが起こる」
住職さんが首を横に振ってその場を離れる。
「よくないことが……よくないことが起こる」
*
翌朝。
学校についた私は、生徒会の二人を捕まえて昨日のことを話した。
「分かったよ。ぬばたま様」
西本ちゃんは「おっ」という顔をしたが、薬井くんは興味なさそうに私の方を見た。構わず私は続けた。
「鏡のことでしょ! 断層から見つかったんだってね!」
すると西本ちゃんは薬井くんの方をちらっと見てから、こう続けた。
「佶谷寺の辺りじゃそれで通ってるね」
すぐに薬井くんが続いた。
「それ多分『ぬばたまかがみ』だな。ぬばたま様じゃない」
「えっ、でもお寺の住職さんが……」
と、言いかけて思い出す。
そう言えば、あの人も『ぬばたまかがみ』と言っていた。直接的に『ぬばたま様』だとは言っていたが、おまけは確かについていた。
薬井くんがため息交じりに続ける。
「まぁ、『ぬばたまかがみ』からぬばたま様が見られるから、間違っちゃいないんだけどな」
薬井くんの言葉に私は飛びつく。
「どういうこと? 鏡にぬばたま様が映るの?」
薬井くんが、今度は意味ありげに西本ちゃんの方に目を投げる。西本ちゃんがそれを受け止めて口を開く。
「恋本さん、『ぬばたまかがみ』、見た?」
私は頷いた。
「遠くから。覗き込んではいないけど……」
すると薬井くんがため息をついた。
「いい加減分かるだろお前」
何のことだかさっぱり分からない。
「どういうこと?」
「ごめんね、恋本さん」
西本ちゃんまで身を引く。
「これ以上話すとよくないから」
「よくないって? どういうこと?」
「意外と頭悪いんだな。恋本って」
聞き捨てならない。
「どういうこと! ねぇ、何なの! 教えてよ!」
しかし薬井くんと西本ちゃんは私を置いて廊下を歩いて行ってしまった。残された私は、どうしようもないイライラと、心の奥に一滴染みた墨汁みたいな恐怖とに、苛まれた。
三組の赤須さんは階段から落ちて足を怪我したものの、それ以外は特に問題がなかったようですぐに学校に来た。これ幸いと、私は彼女を捕まえた。
「ねぇ、赤須さん!」
彼女がトイレから出てきたタイミングを見計らって私は声をかけた。松葉杖をついた彼女はこちらを振り向くと、ちょっと気まずそうな顔をした。
「何」
ぶっきらぼうに返してくる。
「話が聞きたいんだけどいい?」
「話すことなんてないんだけど」
「私が訊きたいだけなの」
「何」
ここで話せよ。
暗にそう発してくる彼女の手をとって、私は続けた。
「ぬばたま様について」
赤須さんの顔が凍った。しかし私は続ける。
「ここじゃまずいなら、トイレで話そ」
そう、顎でトイレを示す。さっき彼女が出てきたばかりのそこは、不思議なほど静かで
「分かった」
覚悟を決めたように、赤須さんが顎を引いた。私は赤須さんと一緒にトイレに入った。
一階の、古くて汚いトイレに。
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