第13話

 合阪さんがあの赤須と昼川の二人に合流しなくなった。当初の私の心配通り、彼女は一人孤立する……と思った。しかし現実は違った。

 彼女はトラブルに遭ったことで却って学年中の女子から同情を買い、「大丈夫? 合阪さん」「大変だったね、合阪さん」と、色々な人から声をかけてもらうようになったのだ。結果的に彼女は新しい友達もできたらしく、赤須、昼川と距離ができたがそれでも学校生活を満喫できるようになったみたいだった。

 それは生徒会長として、喜ばしい変化なはずなのに、私の中の何かは晴れなかった。暗雲とも言えない、だけど晴天とも言えない微妙な天気が心の空を染めていて、自分で自分が不思議だった。私は机の上に肘をついて過ごした。

 やがて、合阪さんの復帰に伴いぬばたま様の噂も下火になってきた頃、それは起こった。ある日突然に、ホームルームの時間に先生が告知してきたのだ。

「昨日の放課後、三組の赤須が階段から落ちた」

 一瞬、教室の空気が固まった。先生は続けた。

「場所は学校裏手の昇降口だ。多目的室に繋がる階段だな。赤須は『誰かに突き落とされた』と言っている。実際転んだような落ち方をしていないんだよな。でも赤須当人もどんな人に押されたか分からなかったらしく、困っている。何か心当たりがあるよ、とか、知っている情報のある者は、先生のところに話しに来てくれ」

 これもそう、多分聞き間違いだとは思うのだが。

 私はこの時聞いたのだ。誰かが思わず、漏らしたような、「くすっ」という笑い声を。

 そしてこの日からだった。


 ――ねぇ、この話って……。

 ――私もそう思う。

 ――ぬばたま様。


 再び、ぬばたま様の話を聞くようになったのは。



「恋本」

 赤須さんが階段から突き落とされた話があった、ホームルームの直後。

 帰り支度をしていると担任の木山先生から声をかけられた。私は先生の方に向き直った。

「赤須の件に関連したことなんだが……」

 心当たりのなさに、鳩尾を冷たい指で撫でられたような気持ちになる。

「生徒会の活動で校内の見回りをやっているよな。その時よかったら、気にかけてくれるか。最近どうも、校内で不審な人物を見かけたって噂が絶えなくてな。誰かがいたずらしているんだとしたら、取り締まりたい」

「はぁ」

 不審な人物って、どんなのですか? 

 そう訊くのはためらわれた。だって分かっているからだ。どんな人が、この学校の中をうろついているのか。

 多分、真っ黒な人影。

 きっとそう、言うのだろう。


「そういうわけだから、また三人一組で巡回に行くことにします」

 生徒会室。私はいつもの二人を集めて告げる。

「赤須さんの一件もあって、学校の中でも警戒を高めようって」

「その赤須さんの件だけどさ」

 と、西本ちゃんがおそるおそるといった表情で口を開く。

「ぬばたま様らしいじゃん……」

 私はとうとう我慢できずに声を荒げる。

「ねぇ、そのぬばたま様って何なの? どんなものを指してるのそれ。ぬばたまぬばたまって一体……」

「罰の神様だって言っただろ」

 薬井くんが淡々と告げる。その静かな目に、私は小さな恐怖を覚えた。と、同時にふつふつ怒りが湧いてくる。

「分かんないの! 何なのみんな揃ってぬばたま様ぬばたま様って! どうせ非科学的な話でしょ。馬鹿馬鹿しい!」

 すると西本ちゃんと薬井くんが顔を見合わせた。それから、西本ちゃんがつぶやく。

「疲れてるの?」

「疲れてるも何も……」

 と、声を荒げかけて馬鹿馬鹿しくなった。何を熱くなってるんだろう、私。

「もう何様でもいいからさ……私を困らせるのやめてくれないかな」

「恋本さん困ってるの?」

 西本ちゃんが首を傾げてくる。薬井くんはへらへらした顔をしている。

「じゃあ、行ってみたらどうだ?」

 薬井くんが伏し目がちに、そうつぶやく。

「行くってどこに……」

 そう言いかけた私に、西本さんが何でもない風に……。

「ぬばたま様のところ」



 御滝中学校がある場所は、かつてこの辺りの村を治めていた村長の屋敷の敷地だったらしい。

 小高い丘の上にある。登校する時は、確かにちょっとした坂道を上らないといけない。

 合阪さんがひどい目に遭った学校裏手の森は、丘の中腹辺りを覆うようにできている。まず雑木林があって、丘を下り切る辺りの場所から竹林に変わっていく。昔はタケノコ狩りが行われたこともあるそうだが、何が理由なのかは分からないが最近はやらなくなってしまったらしい。

 薬井くんが言った「ぬばたま様」はその竹林の先。丘を下り切って、少し歩いた先の崖の下にあるらしい。

 今でこそ、崖の上と下との交通のために階段が作られたのだが、昔はこの段差を迂回するだけでかなりの時間が必要だったらしい。西本ちゃんが言うには、江戸時代よりも前に起きた地震によってできた活断層とかで、この辺りの小学生は理科の授業で地質学をやる際に課外授業として行くことのある場所らしい。


 ――崖の北側、森の影になっているあたりにあるから。

 ――行けば、分かるぜ。


 二人にはそう言われた。一緒に行ってよ。そうは言ったが二人とも、「一人で行った方がいいよ」としか返してくれなかった。どうして一人で行った方がいいのか、行く先で何が待ち受けているのか、何度訊いても曖昧に微笑まれるだけだった。何だか私はカチンと来て、「もういい」とだけ告げるとカバンを持って学校裏手の森へと歩いて行った。木々が陽の光を遮って、落ち葉だらけの土にまだら模様を描いていた。

 ひたすら歩いていると、やがて何かが燻されたような変な臭いのする竹林になり、そのまま歩き続けると急に視界が開け、ガードレールが見えた。コンクリートで塗装された崖。その向こうには住宅街。周囲を見渡すと、小さくて細い階段があった。これ、人と人とが鉢合わせたらどうやって通るのだろうか。

 そんな階段を下りて崖の下に行くと、しばらく崖沿いに道路が続いていたので、そこを歩いた。小学生たちが断層を観察しに行く場所というのは、どうもこの道の先にある自然公園らしかった。

 少し歩いていると、ガードレールの向こうにビオトープのような水溜りが見えた。その先に、ミルフィーユみたいな断層。ここだ。二人が言っていたのは。

 自然公園は崖の北西にあった。少し角度を変えて真北を目指す。ここの崖はコンクリートで舗装されていないから、崖崩れか何かがあったらすぐに潰れてしまうだろう。自然公園は植え込みの木が大きく茂っていることもあって――多分誰も手入れをしていないのだろう――先に進めば進むほど暗くなった。やがて、舗装された道が草むらで途切れた頃になって、それは見えた。切り立った崖。その下にある、洞窟のような、祠。

 それが祠だと分かったのは、入り口のところに苔生した石碑がひとつ立っていて、そこに文字が刻まれていたからだ。『むばたま碑』。そう読めた。

 石碑の真ん中には、『むばたま碑』という名前の他に何やら文字が彫られていた。私は膝下まで茂った草をかき分け近づいて、その文字を読んだ。こうあった。


 ――ぬばたまのかがみのはしのうつせるはとこよのはてのぬばたまのきみ――


「ぬばたまの、鏡の端の、映せるは、常夜の果ての、ぬばたまの君」

 気になることはたくさんあった。まず『むばたま碑』の「むばたま」は「ぬばたま」と同義だ。新聞部で新里さんに聞いた。でも碑文の中ではしっかり「ぬばたま」と書かれている。この表記揺れは何だ? 

 しかしこの疑問には比較的すぐに答えが見つかった。『むばたま碑』……「む」の字が独特の崩された方をしている。私が「む」と読んだだけで、ちゃんとした専門家からすればこれは「ぬ」なのかもしれない。あるいはその逆。そう考えれば一応の説明は通る。そしてもうひとつ。石碑の名前に対して碑文の方は比較的新しかった。『むばたま碑』の方は明らかに職人か何かが手で彫り込んで作られた文字だったが、碑文の方はおそらく機械を使って彫ったものだ。彫口が綺麗だった。私は表面の苔ごと石碑に触った。

 そして次に、穴の向こうに目をやった。薄暗い洞窟だったが、そこまで深い造りになっているようではなく、こちらから差し込む陽の光で十分中まで見えた。目を凝らすと、そこにあった。

 包み込む両手のような形をした、石。その足元にお賽銭箱のようなものが置かれていて、名前が分からない紙の房――ほら、神社とかで神主さんが振ってるようなやつ――が二本、対になっておかれていた。そしてその中央に、それはあった。

 しんと凍った水面のように、輝くもの。

 近くで見なくても分かる。

 鏡だった。すぐさま思い至る。


 ――ぬばたまのかがみのはしの――


「ぬばたまの、鏡の端……」

 そう思っていた時だった。

 不意に背後から、声をかけられたのは。

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