代わり

第25話

 佶谷寺の大火は大勢の怪我人を出した。原因は分からないが、ろうそくの火の不始末だったと言われている。そもそも佶谷寺はおしゃがれさんの一件以来不気味だった。崖の陰に隠れてしまったからである。

 お鈴は大火のその時、右の頬に火傷を負った。大きな火傷だった。

 お鈴はよく働く子だった。火傷さえなけりゃ器量もよく、村の人気者だった。ただ、やはり傷のせいか嫁の貰い手がいなかった。気の毒に思った村の爺さんの伝手でお鈴は村長の家で使われることになった。

 はじめは掃除や飯炊きなどの仕事を任されていたが、その器用さや機転のよさを買われて客人の対応を仰せつかった。屋敷で、それも人前で働くのだ。屋敷の女たちは、お鈴に化粧を覚えさせた。しかしこれがよくなかった。

 火傷さえ隠してしまえば、お鈴はそれはそれは美しい女だったのだ。

 男が放っておかなかった。客の前でも楽しそうにころころ笑う姿はたいそうかわいらしかったし、気が利くので男の欲するところにそっと手を貸してくれる。村長はお鈴を誇りに思ったし、他の使いの誰よりも可愛がった。だが女たちは違った。

 まず飯炊き女が嫉妬した。自分たちより後から入ってきたくせにご主人様によく思われて。出世して。可愛がられて。お鈴の食事には虫や毛が入るようになった。しかしお鈴は、飯炊き女たちの気の迷いだろう、すぐに優しい彼女たちに戻ってくれるだろうと取沙汰しなかった。

 しかし事態は悪くなった。次に村長の娘や姪が嫉妬したのだ。父が、叔父が、自分たちに向けられる目より明らかに好意的な目をお鈴に向ける。面白くない。面白くない。たかが女中のくせに。傷物のくせに。身分が低いくせに。娘たちはわざと客人の前でお鈴が粗相をするよう仕向けた。だが愛らしいお鈴は失敗さえも笑いに変えてしまう。娘たちは悔しがった。何をやってもお鈴はかわいい。

 やがて娘たちの憤りは屋敷の奥様に伝わった。そうして夫が、自分の主人であるはずの夫がお鈴に、かつて自分に向けたのと同じ目線を送るようになったのを見ると、この女を放っておけないと思うようになった。

 ある日。奥様は村長がかねてより大事にしていた金の棒をくすねた。そしてお鈴の部屋にこっそりそれを忍ばせた。よく働くお鈴は部屋を空けがちだった。奥様は易々細工ができた。

 宝物を失くした村長は烈火の如く怒った。そうして屋敷中をひっくり返し、壊し尽くした挙句、お鈴の部屋を破壊した。中から出てきた金が全てを決定づけた。お鈴は激しく折檻された後、ぼろ雑巾のように屋敷から捨てられた。

 折しも村は飢饉が襲っていた。村長は苦しむ村民をよそに蓄えを使って豊かな暮らしを送っていたので、屋敷に住む人間は使用人諸共憎まれていた。お鈴も例外ではなかった。

 かつて、自分に優しくしてくれた村人たちの好意を期待して屋敷から出たお鈴を待っていたのは、凄惨な暴力だった。お鈴は蹂躙された挙句に捨てられた。村はずれ。お鈴は震えながら歩いていた。もたれかかろうとした木の皮でずるりと皮膚が剥かれたお鈴は倒れた。

 やがて森の中、息絶えそうになったお鈴はつぶやく。震える指で印を結び、肺の底からやっと絞り出すような声で……。

「ぬばたま様」

 


「恋本」

 視線による虐待。

 投げつけられる消しゴムのカス、折れたシャーペンの芯。

 捨てられたノート、教科書。

 無視。存在の軽視。

 それらに苦しめられた私を待っていたのは、担任の木山による「昼川への謝罪についての話」という苦行だった。いや、いつもならこれくらい、何ということなく――それこそ、優等生が犯してしまった些細な過ちとして見過ごしてもらえるよう周到に立ち回って――クリアできるはずの問題だった。だが心がずたずたにされた今の私には違った。これはやはり苦行だった。拷問だった。

 呼び出された職員室。先生なりに、私のことを気遣ってくれたのだろう。教室の真ん中で私に話をするようなことはしないでくれた。私が先生に個人的な話をされているとみんな気にするから。先生も先生なりにこの頃の気配を感じていて、みんなが私を気にすることを気にしてくれたのだろう。

「お母さんには話してくれたか」

 椅子に座った先生が優しく訊いてくる。私は黙る。黙るしかない。

 お母さんには何も話していない。昨日はぬばたまかがみと儀式の件でいっぱいいっぱいだった。とてもじゃないが話す余裕なんてなかった。命で償う儀式をやらされた後に呑気に「お母さん、友達を殴っちゃって……」なんて話できると思うか? そんな図太い奴いたら紹介してほしいくらい……。

「話してないのか」

 私の沈黙を残念がるような口調だった。やめてほしい。やめてほしい。がっかりした目で私を見ないでほしい。私は誰よりも優秀で、誰よりもできた子で誰よりも抜きんでた子で誰よりも、誰よりも誰よりも誰よりも……。

「先生からお母さんに連絡しよう」

 木山先生がデスクの上の電話を取った。

「お母さん、家にいるかな? 確か恋本の家は看護師か何かで……」

 ぶつぶつ言いながら受話器を取る。かちゃり、という音で私の中の何かが弾けた。

 木山先生の手を、引っ叩いた。思いっきり。叩きつけるように。それから卓上の電話を両手でつかむと同じように床に叩きつけた。機械が悲鳴を上げて粉砕される。私はそれを踏みつけた後に駆け出した。背後で先生が「恋本!」と言ってくれるかと思ったが、事態が事態だからか、そして呆気に取られたのか、誰も何も発しなかった。私はその沈黙が辛かった。誰も私を見ていないかのようだった。

 脳裏に、顔が浮かぶ。

 合阪……病院のベッドで、洗濯機で回された猫みたいに震えていた。

 赤須……かわいそうに怪我をして、惨めに足を引きずっていた。

 昼川……暮れていく空の下、置いていかれるのはさぞかし辛かっただろう。

 天罰だ! 

 私は叫び出しそうだった。

 天罰だ! 天罰が下ったんだ! 

 廊下を急ぎ足で突き進む。走る。走る。

 水堂さんをいじめたから、水堂さんを責めたから水堂さんを死に追いやったから、あの三人には天罰が下ったんだ。いや、確かに、あの三人に下ったのは私の手で起きた事件かもしれない。私がやったかもしれない私が犯人かもしれない。いや、そうだ……。

 私が犯人だ。私がやったんだ。私が全部した。合阪のスマートフォンで掲示板に書き込みをしたのも私だし、赤須を誰もいない階段から突き落としたのも、昼川を屋上に呼び出して置き去りにした挙句重たい荷物で下敷きにしたのも全部私だ! 私だ! 私がやった! でもだから何だって言うんだ。あの三人は水堂さんを殺した。手をかけたんだ。屋上から飛び降りさせた! 私じゃない。私は何もしていない! 

 あいつらはノロマだったんだ。ただ人をいじめることを、クラスの一軍であることをいいことに端っこの方で暮らす水堂さんを面白半分でいたぶって、つついて、いじめて、そうやって追い詰めて苦しめて侮辱して差別して迫害して、最終的に死に追いやった。あいつらが全部悪いんだ! あいつらが人を殺した! あいつらは人殺しなんだ! 

 だが、今やったことは……。

 私が今木山にやったことは間違いなく問題行動だ。。教師の目に触れた問題行動だ。これは裁かれる。取り沙汰される吊るしあげられる。逃げなければ。逃げなければ。

 しかし私という存在はどうしてもこの学校に縛り付けられている。今日を逃げ延びても明日には捕まるだろう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。私は懸命に考える。どうすれば、どうすれば……。

 行く当てもなくさまよった挙句、校舎の中にいると捕まってしまう気がして、私はグラウンドに出ていた。上履きのまま、遠くで野球部とサッカー部、それから女子ソフトボール部が声を上げているのを尻目に、ひたすら走って、女子トイレに隠れた。個室に入って、和式便器の向こう側、壁の方に立ち尽くして、ただ泣いた。意味もなく泣いた。悔しくて泣いた。

 もう終わりだ。私の中学生活は終わった。何もかもが、全てが崩れ落ちていった。

 一人静かに泣いていると、女子ソフトボール部の部員だろうか。誰かが入ってきて隣の個室で用を足した。私は気配を悟られぬよう息を殺した。何で、何で私がこんな苦しい思いをしないといけないの。何で。何で。何で。何で。

 誰も答えてくれなかった。代わりに自分の手を見た。おかしなことがあった。

 遠い昔に治ったはずの人差し指。

 内出血の後。赤黒かったそこが、じんわりと黒く染まり始めていて……。

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