第24話

「ぬばたま様対処法」

 北森さんの日記。ぬばたま様に対する除霊法が書かれている。「方法」と書かれた行の下にはこうあった。


「まず、蝋燭を用意する」

「火を灯して夜七時にぬばたまかがみの前に立つ」

「ぬばたまかがみを覗き込む」


「これだけ?」

 私は声を上げた。文芸部員たちが面白そうな顔をして私の方を見た。

「案外簡単でしょ?」

「夜に家を抜け出す理由が必要だけど……」

「塾とかって言えばいいし」

 全くもってその通りだった。こんなの今日の夜にも実行できる。

「本当にこれだけ?」

 重ねて訊くと文芸部員たちは「まぁ、北森大先輩が書いたところによると……」と言葉を濁した。その表情の真意は読み取れなかったけど、私は日記をロッカーに戻した。場合によってはメモを取らなきゃ、と思っていたけど、これならその必要もない。

 ろうそくに火を灯してぬばたまかがみを覗く。ただ、それだけ。

 それだけでこの苦しみから解放される。いや、何がどう働いて私のいじめ問題が解決するのか分からないが、ぬばたま様の噂に端を発するこの問題、少しはいい方向に向かうのではないか。そんな期待をしてしまう。

 そういうわけで私は、真っ直ぐ家に帰ると、適当に時間を過ごしてから、ろうそくとライターとスマートフォンを持っておしゃがれさんに向かった。夜の自然公園は何だか鬱蒼としていて不気味だったが、私の中の救いを求める心がただひたすらに足を動かしていた。やがておしゃがれさん、むばたま碑のあるところについた。

 スマートフォンで時間を確認する。六時五十五分。後五分だ。私はろうそくを握って火をつける準備をした。五十七分。いよいよだ。

 ライターに火を灯す。だが着かない。何度点火しても炎が出ないのだ。焦った。こうしている間にも刻々と時間は過ぎて、七時を超えてしまうかもしれない。

 十回目くらいの点火でようやく火がついたライターを、ろうそくの先に近づける。無事着火。私は溶けたろうが手に伝ってこないよう、ろうそくを斜めに傾けながらおしゃがれさんに近づいた。

 崖が月明かりや、街灯の灯りを隠すからだろう。

 おしゃがれさんの下は信じられないくらい暗かった。闇に飲み込まれる、とはまさにこのことだろう。ゆっくりと影の中に足を入れると何か歓迎されたような気になった。まぁ、もちろん、気のせいなのだけれど。

 むばたま碑の向こう。

 ぬばたまかがみのある祠がある。

 ろうそくの明かりを頼りにゆっくり近づく。

 闇の中に口を開けた祠が見えた。

 心臓が高鳴っている。不思議だ。これからいいことが起こるはずなのに。場の空気に飲まれているのか? ぞくぞくと背筋には悪寒が走っていたし、毛虫が這うような感覚が体中を駆け巡っていたが、私は震えるのを我慢してろうそくの明かりを頼りに前に進んだ。一歩一歩踏みしめながら近づく。

 と、その時だった。

 いきなり後ろ腕をつかまれた。それはかなり強い力で私の手首を締め上げていて、私は驚きと痛さとに大きな悲鳴をあげた。

 びっくりして振り返る。そこにいたのは、ジャージ姿に坊主頭の、いつかの住職さんだった。彼はとんでもなく怖い顔をして私の目を見ていた。

「誰にそれを聞いた」

 短く、問うてくる。

「誰にそれを聞いた」

「そ、『それ』って……?」

 驚きのあまり呆然とする私に住職さんは頑なに訊ねてきた。

「この方法を誰から聞いたと訊いてるんだ」

「だ、誰って……」

 私は素直にことの顛末を話す。ぬばたま様に悩まされている。文芸部室にぬばたま様を追い払う方法があるらしく、そしてそこでそれを見つけた。試してみているところだ。

 住職さんはしばらく呆然としていると、やがて困り果てた顔をしてこう告げた。

「それは『命で償います』と表明する儀式だ」

 住職さんは静かに続けた。

「自分が犯した罪を命で償うんだ」

「えっ、何それ……」

 私はろうそくを取り落とす。

「命でって……」

「平たく言えば、その儀式を行った者は死ぬ」

 住職さんの声が静かに響いた。

「まぁ、人間大なり小なり罪は犯しているものだ」

 つまり、聖人君子でもない限りこの儀式を行えば……。

「ぬばたま様に悩まされてると言ったな」

 住職さんの目が、今度はいきなり冷めた気がした。

「一番いい方法は、謝ることだ。非を認めることだ。罪を自覚することだ」

「謝るって……」

 と、言いかけた私に住職さんが短く告げた。

「自覚してる罪があるだろう」

 その言葉に、私は昂る感情をグッとこらえる。

「謝ることだ……今日は家に帰りなさい」

 そうして私は家に帰ることになった。あるのは大きな絶望と、怒りだった。何でこんな……何でこんな。



 泡立った頭の中が静まっていくのを実感しながら、家に帰った。夜勤の母、残業の父がいない家は暗く静まり返っていて、私は家中の電気をつけて回った。まるで光が闇を駆逐してくれることを、祈るかのように。

 ベッドに体を沈める。

 ハメられるところだた。危うく命を失うところだった。とても恐ろしいことだった。心臓が狂ったように脈動している。命で償う? 償い? 冗談じゃない。私はいじめの撲滅のために……のに、どうしてこんな、命まで狙われなきゃいけないわけ? 

 目線をずらして机の上へ。保健体育の小テストが控えているから、資料ノートが一冊ぽんと置かれている。ページには「男女の体」それぞれの裸体が描かれていて、発育過程が記されている。ノートの中の十四歳の体は私のそれよりずっと大人びているように見えたが、他の子たちはあんな感じなのだろうか? 

 他の子たち、であの三人を思い出す。合阪さん。彼女を襲った男子高校生たちは彼女の体を見たのだろうか。どんなのだったのだろうか。

 赤須さん。階段からの落下で怪我をした。発育過程の大怪我はその後に響かないのだろうか。成長に使うべき栄養素を怪我の治癒に使ったら……どうなるのだろう。

 昼川さん。体が冷えた。健康に差し障るだろう。そもそも学生をスカートなんて無茶な格好で、出歩かせること自体間違っているのだ。防寒性の欠片もあったもんじゃない。

 そんなことを考えているとうとうとしてきた。眠りの沼に落ちていく。



 夢を見ていた。登校中。学校の人に出会う。顔を合わせる度に言われるのだ。

 お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ……。

 何が何だか分からないまま自分の教室に向かう。だが何をどう間違えたのか、隣の三組の教室に入ってしまう。花瓶の置かれた机が目に留まった。水堂さんの……水堂さんの机。

 あれ? でも待てよ? 

 机の色合い。傷のつき方。教室内での位置。

 これって、私の……。



 翌朝学校に行くと、昨日の夜見た悪夢の再現みたいな出来事があった。

 学校で誰かに出くわす度に。誰かとすれ違う度、誰かと目が合う度。

 ひそひそ話をされるのだ。私は無関心を装って耳を澄ませてみた。だいたいの連中が、「生きてた」「やらなかったのかな」「失敗したんだろ」なんてことを話していた。例の儀式のことを言っているのは明らかだった。

 みんなが私が命懸けで償うことを望んでいる。何で? どうして? 私が何をしたって言うの。私はただ、水堂さんのために動いただけで、そんな人から恨まれるような筋合い、あったもんじゃない……。

 そして、教室に入って。

 私は息が止まった。それは昨夜夢で見た光景だった。

 私の机の上に、花の活けられた花瓶がひとつ……。

「ちょっと」

 声が出る。

「誰。誰、こんなことしたの」

 訊ねるが、誰も返事をしない。それどころか、くすくす笑われているような気配さえある。

 花瓶を払いのけたい気持ちにかられたが、とりあえず静かに教卓の方に持っていく。どこから持ち出したのだろう、と考えてすぐに、隣のクラスの水堂さんの机からだ、と思い至る。

 何で? どうして? 私がターゲットになるのはどうして? 心の中で訊ねて回ったが誰も答えてくれなかった。あるのは沈黙と、頭の中で聞こえているような、小さなくすくす笑いだけだった。

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