始まり

第3話

「ぬばたま様じゃ……ぬばたま様じゃ……」

 長の家に住み込みで働いていた吉三郎がつぶやいていた。ぬばたま様を知らない他の手伝いたちは――特に女中たちは――気味悪がった。そもそも、歯が欠けて、ふけだらけの吉三郎そのものが気持ち悪いのだ。彼の言う謎の言葉はもっと気持ち悪かった。女中たちは怖気を振るった。

 そしてまた、家の者が不安に思う要素がひとつあった。

 奥様の様子がおかしいのだ。独り言をぶつぶつ言う。ご主人である旦那様の言うことも聞かない。ただ暗い部屋に籠りきりで、時折食事のために廊下に出ることはあるが、それも一瞬のことである。女中たちはやはり気味悪がった。あの田舎者の女を追放してから家に妙なことばかり起こる。

 家の周りを囲む村は相変わらず飢饉が苦しめていた。しかし長の家は蓄えが十分あったので平気だった。女中たちは思った。村の祟りが、家を襲っているのかもしれない。



 保健室に行く途中で、思い出す。暗い廊下の中。その記憶は妙に湿っている気がした。

 水堂優理香についての思い出と言えば、ひとつだけある。

 彼女は私と同じ保健体育係だった。授業の出席簿を持っていったり、ノートの提出係をしたり、仕事はいろいろ。そういえば、いつだか彼女がしんどそうな顔をして体育の授業を受けるのもやっとだったみたいなので、生徒会長を目指している私は彼女に、「保健のノート持っていってあげるよ」と提案したのだった。

 彼女がいじめられている話を聞いたのは、それから少しした頃だった。

 何が原因か分からない。ただ、彼女は暗い顔をした暗い性格の子だった。きっとクラスの一軍女子の反感でも買ったのだろう。いじめは本当に些細なことで起こる。生徒会長候補としてこの問題に向き合った時、その一瞬の絶望を実感した。いつ巻き込まれるか分からない。いつターゲットにされるか分からない。でも私はターゲットにはならない。そうなるべく動いているはずだし、そうなるべくいい立場につこうとしている。いじめを受けた子とは違う。あいつらはノロマだった。私は違う。私はうまく立ち回れる。

 暗い廊下から出て陽の光が当たる渡り廊下に来ると、私は窓から外を見た。ソフトテニス部の女の子たちが一生懸命ラケットを振っている。

 内申点、という意味では、私は何かしらの部活に所属するべきだったのだが、あえてそうしなかった。部活に使う時間を勉強に当てて、それで少しでもテストの成績を上げれば別ルートから内申点に繋がると思っていた。そして実際その通りになったし、私の選択は間違っていなかったと思っている。私は静かに渡り廊下を歩いた。そうして保健室に着いた。

「恋本がやってくるなんて珍しい」

 保健室の先生、仁科由紀子先生はぽかんとした顔をした。以前ちょっとしたことでお世話になって以来、久しぶりの――多分二カ月ぶりくらいの――訪問である。さすが先生だけあって、何回かしか来ていない生徒の顔もしっかり覚えているのだろう。私はちょっと苦い顔をして指先を見せた。鬱血して、黒くなった人差し指の先。

「あーあ。何、挟んだ?」

「はい……」

 私が頷くと、先生はふうと一つため息をついて、

「冷やして、湿布でも貼るか。ちょっとそこに座ってて」

 と、ベンチを指差した。言われるまま座った私は、じっと保健室の中を見渡した。

 古い。木造? だろうか。薄いコンクリートみたいな、厚手のペンキみたいな素材で塗り固められてはいるが、木目のようなものが薄っすら見える。壁も薄そう。そういえば普段私たちが使っている教室の壁も薄い。窓もがたがたするし、ガラスは何十年も前のもののようだ。

「どうしたー? 恋本」

 仁科先生が湿布を小さく切りながら訊いてくる。私は答える。

「この学校って、古いですよね」

「ああ、そうだね」

「何年前くらいに建ったんですか?」

「さぁ? 昭和の半ば頃に建てられたみたいだけど、その前はこの辺の名士の土地だったって言うし、それなりに豪華なものなんじゃない?」

「へぇ」

「それがさ」

 仁科先生は、私の人差し指に小さく切った湿布を貼りながら続ける。

「何でも昔は曰く付きの土地だったとかで、この辺りで怖い話が多いのは、そういうことらしいよ」

 またか。この学校の先生は妙な話を好む傾向にある。

「知ってる? 三丁目のところにある大きな森に……」

「女の幽霊が出る」

「何だ、恋本知ってるのか」

「『くれくれ幽霊』ですよね。会うと何かしらせがまれて、渡すとつきまとわれる……」

「そうそう。何でも昔飢饉があった時に死んだ女性の霊らしいよ」

「今時そんな」

 私は鼻で笑う。

「迷信ですよ。もう何年も前に流行った話でしょう」

「らしいね。とっくの昔に廃れたらしい。でもほら、あの噂は今も有名でしょ?」

「あの噂?」

「『ぬばたま様』」

 私はまた鼻で笑った。

「この学校に出るとか言いますね」

「そうそう。全身真っ黒の女の霊……」

「迷信ですよ」

「恋本にこういう話は向いてなかったかー」

 仁科先生が腰に手を当て笑う。気づけば人差し指に包帯が綺麗に巻かれていた。いつの間に。

 そして包帯で思い出した。

「あっ、巻き尺」

「巻き尺?」

「家庭科の授業で使ったんですが、あれ弟のだった……。今日中に返さなきゃなのに」

「取りに行っておいでー」

「そうします」

 私はベンチから立ち上がった。

「先生、ありがとうございました」

「はいはい、気をつけなよー」

 そして私は保健室を出た。真っ直ぐに教室に向かう……。



 誰もいない廊下はやっぱり何となく怖くて、私は速足で向かった。途中、何度か吹奏楽部の音出しに驚かされたが、しかし教室に辿り着くと、私は机から巻き尺を取り出した。これで弟に怒られずに済む。そう思って歩き出した時だった。

 掃除箱の上に、何かを見つけた。少し目を凝らしてみると、それは封筒だった。茶封筒。何だろう、あれ。

 好奇心に負けて私は掃除箱の上に手を伸ばした。少し高くて、やっとのことで届いたそれを、私は見つめた。裏返し、また表を見て、それから「誰かのラブレターかな?」なんて変なことを思った。大事なことを手紙で伝えたがる女子はある程度いる。これも、そんな感じ? 

 中身を取り出してみると、ルーズリーフが半分に折りたたまれたものが一枚、入っていた。便箋じゃない。ということは……? 再び好奇心に負けてそれを開いてみる。そこに書かれていたのは……。


〈ぬばたま様〉

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