災い
第20話
「奥様なんだけど……」
女中の一人が、同じく隣で皿を洗っていた女中に向けてつぶやく。
「すっかり、よくなったみたいだね」
ほほほ、と隣の間から笑い声が聞こえてくる。奥様の声。ご主人様と一緒に楽しそうに笑っている。
「一時はどうなることかと……」
「本当にねぇ」
「今も、どうかしとる」
不意に背後から声が聞こえて、女中たちは心臓を吐き出しそうになった。そもそもが暗い台所だ。そんなところで冷たい水仕事をしている最中にあの声を聴いたとなっては、誰でも震え上がる。
「き、吉三郎さん」
女中たちが振り向いた先にいたのは馬小屋の男だった。吉三郎。歯ががたがたで、みすぼらしい姿をした男。
「今もどうかしとるさ。お前さんたちは気づかないのかい」
皿を洗う手を止めて、女中たちが顔を見合わせた。それから返した。
「気づくも何も、ねぇ」
「病気をする前の奥さんですよ」
吉三郎はせせら笑った。ぶつぶつとつぶやく。
「おめでたい連中さね」
吉三郎は台所を離れると馬小屋の方に向かって歩いた。途中、屋敷から姿を現したお紅と合流する。お紅は握り飯を吉三郎に渡すと、人目を気にしながら吉三郎に訊ねた。ひっそりした声だった。
「奥様……」
「ああ」吉三郎は頷く。
「ぬば……」と、言いかけたお紅の言葉に被せるように。
「ああ」
「じゃあやっぱり……」
吉三郎は顔色ひとつ変えずつぶやいた。
「右頬を、引き攣らせたろ」
「ああ」女中が頷いた。
「そっくりだったぁね」
吉三郎は渇いた笑いを浮かべた。お紅は続けた。
「火傷の跡だね」
吉三郎が頷く。
「そりゃそうさ。ぬばたま様だ」
*
私じゃない。私じゃない。私じゃない。私じゃない。
学校に行く度、廊下を歩きながら、椅子に座っても、私の頭の中はそれでいっぱいだった。私じゃない。私じゃない。私は何もしてない。
――仕返しって、何を?
――そりゃまず、合阪さんのスマホを……。
そんなこと、していない!
――赤須さんの件も?
――そりゃ、見回りしているついでにでも……。
そんなこと、していない!
――昼川のは?
――呼び出して、扉に鍵かければ一発じゃね?
――外から開けられるだろ。
――外の鍵にもカバーがつけられてたって。生徒がいたずらしないように。あと防犯目的で。
だから、そんなことしてないんだってば!
いくら心の中で叫んでも無駄だった。誰も聞く耳を持たない。当然だ。超能力者でもない限り心の声なんて聞こえない。
取り返さなきゃ。いい行いをして取り返さなきゃ。
薬井くんの言葉が蘇る。
――善い行いをすれば浮かび上がる――
善い行いを、しなければ。善行を、積まなければ。誰かを助けて誰かのためになって、みんなの見本に、みんなのお手本に……。
――俺らを騙してたってことか。
――いじめ撲滅って言ってた人が……。
校内の見回りを強化して、ポスターを作って呼び掛けて、朝校門で挨拶活動をして、廊下で声掛け運動をして各クラスに視察に行って評判の悪い生徒に訊き込みをしていじめをしていそうな人を監視して逐一先生に報告してその先生から何かされていないかも確認してクラスで孤立している人がいないか視察ついでにアンケートもとって……。
あああああ!
絶叫しそうだった。手を打てば打つほど悪い噂が学年中を駆け巡る。曰く。
――焦ってきてるな。
――今さら何をしても……。
――三人にやったことは変わらないしな。
――ぬばたま様の制裁かね。
――ま、そうだろうな。
ぬばたま様? ぬばたま様って何よ。どこのどいつなの? どんな奴でどんな力を持っていてどうやって何をしてどんな力で、私に制裁とやらを下しているの? 私が何をしたっていうの? 何で私なの?
毎日学校に行く度に頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。休み時間、三隅ちゃんに話しかける。
「ねぇ、三隅ちゃんトイレ……」
「ごめん。次の授業の準備あるから」
「終わるまで待ってるよ」
「ごめん。トイレはさっき行ったんだ」
「あ……そっか」
孤立していた。私は一人になっていた。
何で? 何でこんな……。
と、選挙前の自分の言葉を思い出す。
――いじめを受けた子とは違う。あいつらはノロマだった。私は違う。私はうまく立ち回れる――
私が? 私がノロマだって言うの? 生徒会長にまで上り詰めたこの私がノロマ? みんなにのけ者にされて、間抜けの、愚か者の、鼻つまみ者の烙印を押されて、クラスの中で置いていかれて、孤立して、馬鹿みたいにいじめられて、馬鹿みたいに、存在自体がゴミクズみたいに……。
どすん、と肩でぶつかられた。痛っ、と声が出るのより先に、キッと睨まれた。まるで邪魔なところにいるお前が悪いとでも言いたげに。私は咄嗟に謝った。意味のない謝罪だった。
黒い!
続けて頭の中で叫ぶ。
黒い人影だ! 黒い人影の噂が立ってから碌なことがない。あいつが全部……あいつが全部悪いんだ。あいつが何もかも、私の全てを……。
西本ちゃんと薬井くんも、この頃は私に対して冷たい態度を取るようになってきた。私は告げた。
「見回り、私一人でやる。順番もなし。私だけで見回る」
二人がほっと、内心でため息をつくのを私は見逃さなかった。
「二人は他の仕事しといて」
「うん」
「任せろ」
そういうわけで放課後、私は一人、校内を巡回した。あの黒い人影を探して。
*
それを初めて見つけたのは、そんな孤独な巡回を始めて三日目のことだった。廊下の片隅で、誰かがさっと曲がり角の向こうに消えた。一瞬のことだったので判別に迷ったが、暗いところでのことだからか、黒い気がした。私は追いかけた。
「待って!」
やがて命令形になる。
「待ちなさい!」
しかし私の声に返事はなかった。私は走った。
「待って……待ちなさいって!」
人影は何度か廊下の曲がり角を曲がって私をどこかに誘導しているかのようだった。私はついていくしかなかった。あいつの正体を確認したかった。そうする以外に、私の現状を抜け出す手立てはない気がした。いや、なかった。
人影は、何度目かの角を曲がると、そのままトイレしかない場所に消えていった。やっとだ。やっと捕まえられる。そんな安堵を胸に抱いたまま、私はトイレの前で立ち止まった。私自身の荒い息。獣のような。
「待ちなさいって、言ったからね」
最終警告のつもりでそう告げて、トイレの中に入った。女子トイレ。暗かった。
中を歩く。
個室。どれもドアが開いている。ひとつひとつ、確認する。誰もいない。誰もいない。
「そんな……」
と、声が出る。おかしい。さっきまでいたのだ。このトイレに入っていくところを見た。間違いない。それは間違いないのだ。なのに、どうしてこんな、神隠しみたいに……。
窓に駆け寄る。この先に隠れていないか。地上から三階分の高さ。落ちたらひとたまりもない高さ。でもこの先に隠れているとしか思えない。そう思って、覗く。誰もいない。ただの、窓。
「どこ?」
叫ぶ。トイレの壁に反響する。
「何よ! からかわないで!」
しかし声しか反響しない。虚しい。虚しくなる。
荒い息のまま、再び個室の中を確認する。いない。やっぱりいない。じゃあどこに……男子トイレ? そう思ってトイレを出てから、今度は意を決して男子トイレの中に入る。誰かいたら終わりだけど……その時は、間違えたって言おう。私は並ぶ小便器を見た。男子のトイレって不思議だよね。あれじゃただの壁じゃん。なんて、今はどうでもいいことを思った。
個室。やはりドアは開いている。
ひとつひとつ、覗いた。やはり誰もいない。
どうして? どうして? どうやって消えたの?
私は再び女子トイレに戻った。用具入れまで隅々探す。だが用具入れは水道がある関係でとても人が入れる空間ではなく、やはり中には誰もいない。絶望のため息をつく。それからふらふらと、トイレを出ようとした先に、あったものは。
洗面台。その鏡。
暗い、誰もいない、滅多に使われることのないトイレ。
その鏡。隅の方が黒ずんでいた。ぼうっと鏡を見る。目を見る。瞳は黒かった。それは当たり前のことだった。
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