第19話
その話を聞いたのは、長期休み……具体的には、冬休みを終えた頃のことだった。うちの学校は五月に生徒会選挙をするので、私の生徒会長就任から半年と少し、経ったことになる。色々なことがあった半年間だった。まず水堂さんが自殺して――これが今年の一番大きな出来事だろう――私が生徒会長に就任し、ぬばたま様の噂が流れ始め、合阪さんが男に襲われ、赤須さんが階段から転がり落ち……半年の間にこれだけのことが起こった。中学二年の生活も残すところは後数カ月、一月から三月までの間のことだが、果たして何も起こらず済んでくれるか……自信は、なかった。
そしてそんな心配の通りに。
トラブルが起こった。それは最終下校時刻の後、辺りがすっかり夜の闇に包まれた頃になって、発覚した。
夜八時過ぎ。機械警備が作動したのだ。
警報は近所の交番に繋がるようになっている。果たして通報を受けた警察官が発見したのは、学校の事務室で光り続ける機械警備の端末だった。それが示すところによると、四階の屋上に繋がる階段で異常が検知されているそうである。
公立校なので、校門さえ突破してしまえば後は割とどうとでもなる造りだった。
警察官はやや迂回路を巡り問題の階段まで辿り着くと、懐中電灯で周囲を照らした。そして、とん、とん、と小さく叩かれ続ける扉を確認した。
一応、オカルトの類は一切信じない人物だったそうだが――当該警察官もさすがに背中に冷たいものが走るのを感じた。そこで警察官が「誰だ?」と訊ねると、ドアを叩く音が少し強くなり、そして「助けてください……」というか細い声が聞こえてきたそうだ。
果たして御滝中学二年、昼川千夜は保護された。彼女は放課後四時から夜八時までの四時間、ずっと屋上に放置されていたのだそうだ。
彼女のお母さんは看護師で、その日はたまたま夜勤だった。家のテーブルにその日の晩ご飯を置いて午後五時には仕事に出ていたので、娘の帰りが遅いことを認知できなかったのだ。お父さんは会社員だったがこのところ残業続きだった。不運に不運が重なった。
四時間も冷たい風の吹く屋上に放置された昼川さんはすっかり冷え切っていて、唇も真っ青だったそうだ。保護された昼川さんは、駆け付けた警察官にすぐ伝えた。
――ぬばたま様……ぬばたま様――
地元で暮らしていたこともある警察官はその単語の意味をすぐに把握して、昼川さんを病院に送り届けると同時に
その後、昼川さんと住職さんの間で何があったのかは分からないが……しかし、噂によると昼川さんに対して除霊のようなものが行われたそうだ。詳しくは知らない。だって誰も、話さなかったのだから。
ただ、そう、変化を話すとしたら。
私の人差し指の内出血は治っていた。実に数ヶ月に及ぶ怪我だったがやったことで治った。しかし綺麗に、とはいかなかった。ほんの少し赤黒く、痣みたいなものが残ってしまった。だが人差し指だし、顔じゃなければまぁ、かすり傷みたいなものかと思った。
在りし日の、じくじくした痛みを思い出す。
思い出すと――思い出すだけで――ほんのり痛い気がした。私は指先を舐めた。
*
こうして水堂さんをいじめた三人に天罰が下った。昼川さんはしばらくの間学校を休み、そして……冬休みに入った。彼女が年越し前に学校に来ることはなかった。
翌年。
一月の学校に、昼川さんは姿を現した。相変わらずのスカートにジャージ履きかと思いきや……意外にも、きっちり制服を着ていた。よくよく見ていると、水堂さんをいじめた三人が三人とも制服をきっちり着るようになっていた。
私が彼女たちの態度が改まったことに感心していると、ある日の昼休み、薬井くんが私のいる四組の入り口に顔を出した。話がしたいようで、ちょいちょい、と手招きをしてくるので素直に近づくと……薬井くんはいきなり食いかかるように話してきた。
「知ってるか? 昼川の件」
もう去年の話なので、今更か、と思いつつも、私は訊ねた。
「何かあったの?」
「佶谷寺の住職が昼川さんに話した内容が漏れたんだ」
漏れた、って誰から。そもそもそんなプライベートな話漏らすような奴の話信用していいのか。私が情報リテラシーについて考えていると、薬井くんは続けた。
「『善い行いをしていれば自然と浮き上がる』」
意味不明な言葉だったので私は訊き返した。
「どういう意味?」
「分かんねーのか?」
質問返しをしてくる薬井くんにむっとしながら、私は口を開いた。
「そんな昔話の教訓みたいなこと言われてもぴんとこないって」
しかし薬井くんは意地悪そうな笑顔を浮かべたまま続けた。
「善い行いをしていれば浮かぶ。逆に言えば、善い行いをしていないと沈むんだよ」
私は唇を噛んだ。
「何を言ってるのかさっぱり分からない」
薬井くんはへらへら笑った。
「ぬばたま様の話は聞かないか?」
と、初めて私はぬばたま様について思い至る。
「そういえば最近聞かないかも……」
「ま、それは昼川の件の後にすぐ冬休みが来たからだろうな」
薬井くんの言葉を私なりに訳してみると、だ。
「……昼川さんもぬばたま様?」
「違うのか?」
やっぱり意地悪な顔をしている薬井くんを私はどついた。
「意味分かんないこと言わないで。ほら、休み時間終わるよ」
「これだけは言えるぜ」
私に背中を押されて、自分の教室の方に追いやられながら。
薬井くんは続けた。
「『善い行いをしないと沈む』」
*
――ねぇ、聞いた?
――なになに?
――また現れたって。
――あー。
――ぬばたま様。
また、聞くようになったのだ。
ぬばたま様。まるで薬井くんのあの廊下での話を合図にしたかのように。
あちこちで聞く。ぬばたま様。ぬばたま様。
無駄だとは分かっていても、私は訊く。訊いてしまう。
「ねぇ、ぬばたま様って……」
――あ、恋本さん、転校生だっけ。
――ぬばたま様なんて知らなくていいよ。
――生徒会長だし。
――ふふっ、生徒会長だし。
やはり誰も取り合ってくれない。誰もまともにぬばたま様について教えてくれない。野田山先生に訊くか。そう思って職員室に行った。先生は私の疑問に答えてくれた。
「この頃またぬばたま様の噂を聞く?」
ええ、と私が頷くと、野田山先生は静かに頷いた。それから続けた。
「ぬばたま様にひどいことをされたのか」
「うーん、妙な気配を感じたり、周囲で困りごとが起こる程度には……」
「そうか」
それから先生は、また考え込むような顔になった。それから続けた。
「俺もあんまり深入りするとよくないことが起こりそうで、悪いがあまり口出ししたくない。だが……」
そう、先生は前置きしてから、「心当たりはないか?」と訊いてきた。
何のことだか分からないのでその旨伝えた。
「そうか」
野田山先生は真っ直ぐに私を見た。何だか、私を疑うような目だった。
「あるはずなんだがなぁ」
*
――やりすぎたんだよ。
――絶対そう。
――まさか生徒会長。
――でも、何で?
私に関する良くない噂を聞くようになったのは野田山に「あるはずなんだけどなぁ」を言われた翌週のことだった。良くない風が吹いていた。私の噂は、だいたい次のようなものだった。
――水堂さんの件。
――勝手に仕返ししたんでしょ?
――まぁ、三人がしたのは確かに許されないことだけどさ。
――やりすぎ。
私が水堂さんに代わってあの三人に仕返しをしたという内容のものだった。私は焦った。今一度、生徒会選挙の時のように壇上に立って「違います」と抗議したいくらいだった。しかし現実は冷たかった。私の悪い噂はどんどん広まっていった。
――いじめをなくすってそういうことかよ。
――なんていうの? ヒトラー?
――独裁のことか。
――そうそう、それそれ。
違う。違う違う違う。
私はそんなことはしていない。そんなことはしていないんだ。していないったらしていない。私は、違う。
そう、叫びたかった。だが叫べなかった。沈黙を強いられていた。私はただ、その噂に耐えるしかなかった。
そう、これが冒頭の「噂」だ。
私に関する良くない噂だった。
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