第22話

 私は逃げた。その場から逃げた。ただひたすらに廊下を歩いて、突き進んで、それから昇降口に行って靴箱で靴を脱いだ。そしてぎょっとした。それは一番見たくないものだった。

 靴の中に、砂が詰められている……。

 震えた。恐怖に震えた。これはいじめだ。いじめが行われているんだ。誰かが私をいじめた。いじめのターゲットにした。しばらく呆然とした。フリーズした。固まった。それから靴を取り出すと砂を全部捨ててパンパンと払い、足を入れた。じゃりじゃりとした感覚が足裏を包んだ。私は逃げ出すように歩き出した。

 校門に至るまで。

 誰かがくすくす笑っている気がした。誰かが私に後ろ指を指している気がした。誰かが私を蔑んでいる気がした。見下されている気がした。

 そうして暗い感情を持ったまま家に着くと、真っ先にベッドに倒れ込んで静かに泣いた。私は堕ちた。堕落した。学年の頂点、生徒会長からただのいじめられっ子にまで落ちぶれた。それは屈辱的なことだった。そして、今日やってしまったことを振り返った。

 昼川に攻撃した……昼川にひどいことをした。

 噂はすぐに学校中を駆け巡るだろう。二年生どころか三年生一年生の知るところにもなるかもしれない。そうなったら私の居場所はいよいよなくなる。私はただ笑われるためだけに、いじめられるためだけに学校に行くことになる。そんなの嫌だ! 

 だが学校を変えるという選択肢はなかった。ここまで築いた内申点。手放すわけにはいかない。捨てるわけにはいかない。いじめの対象になったとはいえ、成績は優秀、先生の覚えもいい。このまま行けば進学校も夢じゃない。そして進学校に行けばいい大学に行けて、いい大学に行ければ就職も有利に……そうだ、捨てるわけにはいかない! 

 たった一年ちょっと我慢すればいいのだ。一年だ。一年ちょっと。不名誉ではあるが最悪の生徒会長として生きて、それから卒業したら何もなかったように過ごせばいい。そうだ。それがいい。それしかない。ベッドの上で悶絶ししながらそんなことを思った。人生プランとしては道筋こそ見えているが最悪だった。

 それから食べた夕食は味がしなかった。元気がないことは母にはバレなかった。何せ仕事が忙しい。一緒のテーブルに着くことが稀だ。私はご飯をかき込むと部屋に戻った。それから、今後どうすれば事態は好転するか考えた。

 ベッドに上半身を預けてぐったりしている時に、それは思いついた。薬井くんの言葉だった。


 ――善い行いをすれば自然と浮かび上がる――


 善い行い。善行。徳を積む。

 咄嗟に浮かび上がった行為はまさに素晴らしい行いだった。これがもし、水堂さんがぬばたま様になったことに起因するならば、これが一番いい手だ。私はしばし考えた。これから為すべきこと。それから母の勤務時間。

 お母さんは、明日朝番だ。

 家を出るのが早い。三時くらいだ。お父さんも家を出るのが早い。七時くらい。私が学校を出る頃には二人ともいない。これは、もしかして。

 名案を抱えたまま寝るのは、少しだけ気分がよかった。さっきまでの暗い気持ちが、軽く思えた。だから少し時間がかかったものの、素直に眠れた。翌日、私は計画を実行することにした。



 朝、お父さんが家を出たのを見送ると、学校に電話して熱が出た旨伝えた。学校を休むのだ。それから、一応制服を着てすぐさま出かけた。向かう先はお寺だった。佶谷寺じゃない。水堂さんのお葬式が行われた寺だ。

 敷地の中に入ると、とりあえず墓場を目指して歩いた。山の斜面を切ってできた段差のあるお墓で、私は下の段から順に墓石を見ていった。お墓の前には実に色々なお供え物があって、食べ物から、バット、卓球のラケット、面白いものだと音声を聞くと踊り出すロボット人形まで、様々だった。多分生前の何かを示すものたちなのだろう。サッカーボールを見た頃になって悲しくなった。きっとサッカーが好きな子供か誰かが死んだに違いない。

 やがて見つけた。「水堂家の墓」。

 これが水堂さんの家の墓である可能性は高かった。いや、仮に水堂さんちのお墓じゃなかったとして、もう一回墓場の中を歩いて同じ名前を見つければいいのだ。そうして何度も手を合わせていれば、いずれ水堂さん本人の墓に当たる。そんなローラー作戦のつもりで、手を合わせ「安らかにお眠りください」と祈った。それから「怒りを鎮めてください」とも。ぬばたま様の呪いを、不気味な呪いを、どうか、かけないでください。と。合阪赤須昼川は、あなたをいじめたから天罰が下ってひどい目に遭いました、と。もうこれ以上復讐を果たす必要はありません、と。

 手を合わせて目を瞑ると、一礼してから墓石の前を離れた。それを見つけたのは目線を上げた時だった。

 お墓の片隅……具体的には、私がいる段から三段上がった、山肌の傍の墓石。

 その前に人が立っていた。長い黒髪を垂らした、おそらく女性で、気味が悪かった。だが私の中で何かが爆ぜた。そしてその爆発は理解へと繋がった。あれは水堂さんだ。水堂優理香さんだ。咄嗟にそう思った。根拠のない思考だったがハッキリそう思った。私はよたよた歩きだした。

「水堂、さん」

 声をかける。だが人影は応じない。

「水堂さん。水堂さんだよね」

 まぁ、有体に言おう。ハッキリ言おう。

 お墓で死んだ人に会うだなんてそんなオカルト、まともに信じる方が馬鹿だった。つまり私は間抜けの極みという行為をしているわけで、謎の不気味な女に学校で死んだ女の子の姿を重ねるなんて、失礼だし下らない行為だったのだが、しかしそうせざるを得なかった。そうしなければいけない何かがあった。私は階段を上るとその黒髪の女性に近づいた。長い前髪で顔がよく見えなかったが、青白い肌が覗いていた。

「水堂さん。水堂さん」

 何度も名を呼ぶ。

 すると、階段の半ば頃になって、女性がすっと手を上げた。肩ぐらいの高さで止まったそれは、人差し指が伸びていて何かを指していた。私は足を止めてその指の先を見た。奇妙なものがあった。

「木本家の墓」。墓石にはそうあった。

 水堂さんとは何の関係もなさそうなそのお墓の前には、一冊のノートが置かれていた。妙なノートで、よくある授業の内容を書き留めるような学習ノートではなく、何かの資料がまとまっていてそれに直接かき込むような、ある教科に特化したようなノートだった。長いこと日に当てられていたからか表紙の色が抜けて霞んでいる。何の教科のノートか分からない。

 これ、触っていいのだろうか。

 躊躇ったが好奇心の方が勝った。謎の女が示した先。そこにあったノート。

 ふと顔を上げた。黒髪の女は消えていた。不気味だったが、そこまで怖くはなかった。心の静寂が不思議だった。私は木本家の墓の前にあったノートを手に取った。

 ぺらぺら、めくる。中身も色あせていてよく分からない。ただ、何ページかめくったところである絵が気になった。それは……。

 簡易的な男性の裸と、同じく簡易的な女性の裸とが描かれた絵だった。

 何だか見てはいけないものを見た気がして、私はノートを閉じた。それから元の場所、木本家の墓の前にそれを置くと墓石を見た。この石。この家族。何か意味があるのだろうか。

 しかしまぁ、このノートもお墓の前に供えられた生前を示すものである可能性は大いにあって、もしかしたら学校の先生をしていた人のお供え物なのかもなと私は思うことにした。元の場所に戻したノートをよく見る。これは何の教科のノートだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る