ぬばたま様

飯田太朗

第1話

「違います……違います……」

 しかし声もむなしく、女はまるで雑巾か何かのように捨てられる。

「わたくしではございません。わたくしはそのようなことは決して……」

「おだまり」

 奥方が吐き捨てる。女は絶望的な目で彼女を見上げる。

「お許しを……どうかお許しを……」

 女が地べたに這いつくばりながら許しを請う。しかし家の者は許さない。

「ならぬ」

 それは家の長の言葉だった。彼の言葉は冷酷に響いた。

 そうして女は放り出された。飢饉が起きた枯れ果てた地に。長の家で暮らしていた女は村人からも嫌われた。それから女を待ち受けていた運命たるや、筆舌に尽くしがたい。食べるものもなく、着るものもなく、あるのは村の者から受けた生傷ばかり、やがて森の中、息絶えそうになった女はつぶやく。震える指で印を結び、肺の底からやっと絞り出すような声で……。

「ぬばたま様」



 二〇二三年。

 学校の屋上に、一人の女子生徒。

 本来なら入れないはずの屋上には、生徒会室に置かれているキーボックスの鍵を失敬することで侵入した。鍵を開けた後、再びキーボックスの中に戻しておいたので、どの鍵でここまで来れたのか、誰にも分からないはずだ。分かったとしてもまず疑われるのは生徒会だろう。そう、計画は完璧だった。後は実行するのみ。肝心のラストを飾るのみだった。

 少女は自分がスカートを履いていることにも構わず大きく足を上げてフェンスを乗り越えた。そしてその先に広がる景色を見た。

 朝焼け。空がほんのり白んでいる。澄んだ空気が鼻腔をくすぐる。冷えた指先がフェンスに食い込み、じりじりと痛い。だが、この痛みも後少しのことだと思えば。少女は、不思議と気が楽だった。ようやく、ようやく終わらせることができる。

 少女は片方の手をフェンスから離した。そうして印を結んだ。親指を中指と薬指の間に差し込む、独特の手の形だ。それからぎゅっと手を握りしめた。親指の先に不思議な感覚が走った。

「ぬばたま様」

 少女はそうつぶやいた。そして、すっと大きく息を吸うと、彼女は歩き出した。

 フェンスの向こう、無重力の彼方へ。



「水堂優理香って自殺らしいよ」

「誰それ」

「隣のクラスの保健体育係」

「あー、あいつ」

「知ってんの?」

「私に文句つけてきた」

「なんかいじめが原因らしいよ」

「ふーん」

「この間まで仲良しクラスだったのにね、お隣」

「ふーん」

「興味ないよね」

「何でその話したん?」

「いや、何か話題なくて」

「トイレ行こ」

「うん」

 トイレの前。掲示板がある。保健だより、校長室だより、そして生徒会からの発行物。

『生徒会長選挙立候補者のお知らせ』

「……そういやあんたさ」

「何?」

「いや、何でもない」

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