第2話 予見(二)

 風のほとんどない静かな夜だった。こんな夜は森中が虫たちの奏でる音で心地よくみたされる。あとは時折聴こえてくる夜鳴き鳥の鳴き声くらいで、葉擦れの音もほとんどしない。 


 小屋を出たヨナスはランプの明かりを頼りに泉へとつづく小道をおりていった。泉の畔をぐるりと回りこみ、対岸にそびえる大樹の根本に立つと、ランプをかざして上を見上げてみる。


 灯りは目の前に横たわる巨大な根の一部を照らし出すばかりで、あとは暗い影のような幹が複雑にねじれて天を目指して伸びている。


 ヨナスは根にそっと頬を触れさせると、そこから伝わる鼓動に心を傾けた。瞼を閉じて暫くじっとしていると、木肌の下から微かな音が伝わってくるのがわかった。


 その音はカロンカロンと誰かが戯れに琴線を爪弾いているかのような、妙に心地の良い調べだ。だがそれは随分と控えめな響きであり、ヨナスの若かりし頃の記憶にあるそれとは明らかに異なる、弱々しいものであった。


 ヨナスは大樹の木肌から身体を離すと再び頭上を見上げた。月はすでに中天に差し掛かっており、足元から延びる無限の質量が遥か上空の樹冠からこぼれ出る月明りめがけてうねるように伸びていた。


 殆ど白と黒だけで構成されたその眺めはまるで影絵の世界のようで、老いたヨナスの心に一握の感動を与えてくれた。


 ヨナスはおのれが未だ夢の続きの中にとらわれているような錯覚に陥ったが、しのびよる夜気の冷たさと、ランプの芯の焦げつく匂いとがこれは現実であると彼に告げていた。


 ヨナスは木の根にできた大きな節のひとつに腰かけた。彼はそこから望む泉の景色がお気に入りであった。


 淡い輝きをたたえた水面の上には無数の燐光が漂っていた。ランプの摘みを絞って灯りを最小限にすると、宵闇の中に舞う精霊達の輝きはより一層明るさを増し、泉の上を飛び交うその輪郭が先程よりもはっきりと見てとれた。


 ヨナスが手にしたランプを足元へ置くと、まるで後退した光の領域を補うかのように、大小の輝き達が泉の方から彼の周りへ舞い込んで来た。


 老人が左手をそっと前にかざすと小さな輝きが彼の皺だらけの指と戯れるようにまとわりつき、大きな輝きは彼の膝の辺りをゆったりと通り過ぎてゆく。


 いったいこの輝き達がどれほど老人の孤独を慰めてくれた事だろうか。人から忘れられた辺鄙な森で、緩やかに成長する木々とそこで繰り広げられる虫や獣たちの営みを見守り続けるだけの人生……だがそれも、じき終わりを迎えるに違いない。


 大樹が朽ちればやがて泉は枯れ、精霊達はこの地から姿を消すだろう。精霊達がどこで生まれ、どこへいってしまうのか、ヨナスにもはっきりとした事は分からなかったが、彼らが去った後の森の姿ならば容易に想像がついた。


 森はいずれ元の痩せた森に戻り、やがて大荒野の侵食にさらされるのだ。


 だがそれに対してヨナスが守り人として為すべき事は何も無かった。病や、あるいは外界からの干渉に森が侵されるのであれば、ヨナスは彼の持てる全てを賭してそれらを退けたであろう。だがこの大樹はすでに物質としての限界を迎えているのである。


 それは老いだ。たとえどれほど大地の精の祝福を集めようとも、物質界での入れ物が損なわれたならば、あとはただ塵に還るより他はないのだ。


 しかし新たな芽生えに備えて種を実らせるには大樹はもはや死に体であったし、それを見守るだけの時間と気力は今のヨナスには残されていなかった。だからヨナスは夢占の示すこの森の未来を受け入れることにした。


 だが、ヨナスは先ほど見た夢を思い返した。なぜ今になって何度もみたはずの夢に続きができたのかは不明だ。その夢の続きはわずかばかりのものであったが、崩れゆく大樹の根元で彼の傍らには確かに別の人物が立っていたのである。


 はじめはヨナスの記憶を継ぐ者かとも考えた。森は滅びず、新たな守り人が彼を解放してくれるのかと。しかし夢のお告げでは大樹は確かに崩れ去るのだ。だとすればその者は新たな森の礎となるべき人物であり、決して彼と彼の先人達の後継者ではないはずだ。


 あるいは夢にはもっと別の解釈を与えるべきなのかも知れなかったが、何れにせよお告げに出てくる以上、その人物がこの森の行く末に深く関わるべき人物である事は間違いなかった。


 やはりその人物を見つけ出さねば成るまい。だがヨナスにはそれが誰なのか、どこへ行けば会えるのか検討もつかなかった。


 なにしろこの森にすむ人間はここ何百年もの間彼一人なのだから。ひろがり続ける大荒野のおかげでこの北辺の森には迷い込む旅人すら滅多におらず、ヨナス以外でこの森に住まうのは獣か妖物の類だけなのだ。


 先人達の古い記憶によれば、守り人の役目を受け継いだ者の中には人外の者も稀にいたようであるが、夢の中でヨナスの傍らに立っていたのは確かに人の姿をした誰かであった。




 夜が明けた。ヨナスは寝床へは戻らずに大樹の下で一晩を過ごした。そしてひたすらに自問自答を繰り返していた。


 夢に出てきた人物を探すべきか否か、その者――恐らくはまだ若い誰か――にヨナスと同じ役目を彼自身が背負わせるのか、そして数千年を既に生きたこの森をさらに生きながらえさせる事に意味はあるのか……ヨナスの見た夢は既にその答えを彼に与えていた。


 なぜならば守り人は意味の無い夢をほとんど見ないからだ。だがヨナスはそれが如何に残酷な仕打ちであるのか彼自身が身をもって知っていた。


 永遠に等しい時間を生きる事は並の魂にとって拷問とも呼べるものである。はじめは世俗から弾き出された孤独に心蝕まれ、いずれ生き物としての欲も衝動も枯れ果て、ついには己がなぜ息をするのかさえ分からなくなる。守り人はそれでもなお生きながらえる事を宿命づけられるのだ。


 まさに先代の守り人がただの人であったヨナスを後継者に選んだ理由は、自らを森の一部として生きながらえさせる事ができる、その資質をヨナスに見出したからにほかならない。


 この森にはじめて足を踏み入れた頃のヨナスは世捨て人以外の何物でもなかった。彼は偶然訪れたこの森で先代の守り人と出会ったのだ。その後の彼の人生の指針となる男であった。


 ヨナスはいまでもその男との出会いに想いを馳せて懐かしむ事があるが、しかしそんなヨナスであってもかつて先代の守り人を心底恨んだ時期があった。


 その守り人の名はヴィルヘルムという。ヴィルは今のヨナスより幾らも若かったが、それでも彼がこの森で費やした数百年という孤独な歳月にその魂はひどく膿んでいた。




 辺境の貧しい集落の生まれであったヨナスは世俗にはびこる飢えや争いに近しい者の全てをなくし、半生半死で荒野をさまよううちに偶然たどり着いたこの森でヴィルと出会った。


 数年か数十年かは忘れたが、守り人のヴィルと共に暮らす事でこの森が彼の知る世界の常に在らざる領域である事を理解し、そこに巣くう獣や妖物、精霊達との対話の術を学んだ。まだ若かったヨナスは己の知る世界が全てではないと知ることに高揚感すら覚えた。


 だが彼が守り人である事の真の苦悩を理解したのはヴィルヘルムが逝った夜の事であった。死の床に臥したヴィルの傍らでヨナスは己の膝を抱えてたたずみ、ひたすら身体を震えさせていた。


 当時のヨナスにはそのとき自分の身に何が起こっているのか知る由もなかったが、視覚といわず聴覚といわずあらゆる感覚を通して、かつてこの森の守り人であった者達の記憶が彼の頭の中に有無を言わさずなだれ込んできたのだ。


 ヨナスの自我は、彼の頭の中に無秩序に流れ込もうとする先人達の記憶の断片に埋もれ、翻弄され、そして打ちのめされた。彼は薄暗い部屋の隅で、まるで許しを乞う罪人のようにか細い声で一晩中ヴィルの名を呼び続けた。


 そして夜明けを迎え、さしこんだ朝日にヨナスはわずかばかりの正気を取り戻すと、這うようにして守り人の傍へとにじり寄った。だがこの時、ヴィルはすでに息をひきとっていた。


 床に横たわるヴィルの亡骸を恐る恐る覗きこむと、青ざめたヴィルの顔はヨナスの知るより遥かに老けて見えた。だがその表情は彼が初めて目にする穏やかなものであった。


 その時からである。ヨナスはヴィルのように穏やかな表情で役目から解放される日が来るのを待ち望んで生きてきた。僻地の森で孤独を噛みしめ、無秩序に雪崩れ込んだ他人の記憶を並べ替えながら一日をおえるという、ただ森と向き合うだけの日々が続いた。


 そして気の遠くなる程の歳月が流れた。今となってはヴィルやこの森に足を踏み入れた若き日のおのれに対して恨みもなにも有りはしなかった。それらは膨大な記憶の中のただの一片と化したのだ。


「やはり探しださねばなるまいか……」老人は酷くしゃがれた声でそう呟いた。


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