第3話 予見(三)
ヨナスは最後の夢占を見た夜から泉の畔に腰をすえ、丸二晩を瞑想に費やした。そして三日目の明け方近く、泉の周辺に白い霧のようなものが漂い始めた。
水面の上を漂う霧は次第にヨナスの目の前に集まり、いつしか白く発光する球形を成した。彼は立ち上がると、着衣の裾が濡れるのもかまわず浅瀬に足を踏み入れた。
ヨナスは淡い燐光を放つ球体の前へ立った。そして懐から小瓶と黒曜石で出来たナイフを取り出して何やら呪い言葉(まじないことば)を小さく唱えながら、小瓶に詰められていたこの森の土を球体の上からぱらぱらと降らせ始めた。
しばらく土塊の飲み込まれた霧状の球体を見つめたあと、今度は黒曜石のナイフを己の掌にあてがい、引いて傷を付けると球体の上から血の雫を数滴したたらせた。
すると球体の表面に赤黒い染みができ、その染みはゆっくりと渦を巻くように拡がり始め、やがて球体全体を覆い尽くしてしまった。
ヨナスがさらに二言三言呪い言葉を唱えると、球体の染みは宙に浮いた鈍い光球の中で人型を成し始めた。
人型はちょうど胎児がそうするように己の膝を抱えた姿勢で球体の中に蹲っていた。やがて球を成していた霧が四散すると、人影は糸の切れた操り人形のように無防備な姿勢のまま水面に没した。
ヨナスは目の前に堕ちた人影を背後から抱え込むと、岸へと引き上げた。人影は男であり、人並みに言えば五十を幾らか過ぎた位の見た目であった。男は岸にうつ伏せたまま、口から二度三度と苦しそうに水を吐き出した。
「わしの声が分かるか?」ヨナスは男の前に立ち、感情のこもらぬ声で尋ねた。
男は声こそ発しなかったがヨナスの言葉の意味を明確に理解した様子で頭を頷かせた。そして寒がるように全身を小刻みに震わせながらゆっくりと顔を上げた。
ひどく頼りなげな仕草でヨナスを見上げたその顔は、ヨナスより若くはあったが確かにヨナス自身の顔であった。
ヨナスは男に自分が羽織っていた外套を貸し与え、それから二人して斜面の小屋まで引き返した。
男は小屋の中に入っても全身を小刻みに震わせながら、与えられた肌着と乾いた布とで身形を整えると、先ほどよりは幾分落ち着いた様子で寝台の縁に腰を落ち着かせた。
一方のヨナスはと言うと、男の世話と長きにわたる瞑想の疲れから精魂果てた様子で暖炉の傍に置かれた愛用の椅子に腰掛け、薪の燃える様を静かに眺めていた。
二人はしばし無言のまま過ごした。男はヨナスの用意した野草のお茶を飲み、身体の震えが治まるのをまった。時折火にくべられた薪の爆ぜる音が薄暗い室内に響き渡る。
男はマグの中身を三分の一ほど飲み干すと、あとは口を付けようとせず、背を向けたまま黙りこんでいるヨナスの事を無言のまま見詰めていた。
「口に合わんかな?」ヨナスは椅子に掛けたまま、見向きもせずに尋ねた。男はヨナスの問い掛けには答えず、僅かに瞼を伏せる。
「ふむ……それでは質問を変えよう」そう言うとヨナスは己のマグを傍の台の上に置き、懐から皮製の煙草入れを取り出した。中に収められていた煙管を抜き取ると慣れた手つきで自家製の刻み煙草を詰め込んで火を点した。
ゆっくりと吸い込まれる呼気に合わせて葉の焦げる音がジリジリと響きわたり、すぐに甘ったるい香りが部屋中に漂い始めた。ヨナスは何度か煙管をふかしてから立ち上がると、背後にいる男の方へゆるりと向き直った。
「己が何者か分かるか?」ヨナスのその問い掛けに男は少し間を置いてから答えた。
「私は……貴方だ」男の答えは何とも珍妙なものであったが、その返答にヨナスは満足げな笑みを浮かべると、また煙管を一服ふかした。
「どうやら言葉と記憶は授かっておるようじゃな。上乗。だがそなたの答えは完全とは言えん」ヨナスはまるで目利きの商人がする品定めのように、男の頭頂から足先までをゆっくりと値踏みする。男の方はと言えば無表情に黙り込んだまま、ヨナスの次の言葉を待っていた。
「お主はわしの一部で、わしはお主ではない。わしの魂の一片から成る、いわばわしの分霊じゃ」ヨナスはそう告げると、男に大樹の崩れ落ちる夢の話をして聞かせた。それからその夢の記憶があるかと改めて男に尋ねると、男はあると短く答えた。
「他でもない。お主に血肉を与えたのは、わしに代わってその誰かを探し出してもらう為だが……何処へ行けば会えるかはわしも知らん」何とも掴み処のない依頼に男は片眉を軽くあげて見せた。寡黙で無表情な男にしては妙に人臭い仕草であった。
男のその無言の問い返しに、老ヨナスはただ一言「会えば自ずと分かるだろう」と無責任な助言を与えた。
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