宵星の塚の影祓い
第4話 宵星の塚の影祓い(一)
この年は例年よりも半月ほど遅れて雨季の終わりを迎えようとしていた。一年のほとんどを刺すような陽射しと砂嵐とに支配される大荒野において、僅か二月足らずのこの雨はまさしく天の恵みと言えた。
降り注いだ雨水の多くは大地に留め置かれることなく、瞬く間に流れ去るか蒸発してしまうだろう。だがそれでも荒野に無数に走る水無し川と呼ばれる河跡を一時満たし、川底が露わになったあとも地下水として人々の暮らしを支えてくれるのだ。
テオは増水したセム川の畔に佇み、年に一度の濁った川面をぼんやりと眺めていた。歳の頃にして十二、三位の少年で、継ぎ当てだらけのぼろ着の上から身の丈よりもやや大きめな外套を羽織っていた。
少年は川面を見ながら手元をまさぐった。彼が手をついている地面は乾燥によって大きくひび割れ始めており、ひびの隙間に指先を引っ掛けると小さな土塊がこそげるように捲れ上がった。
テオの隣にはもう一人、彼と同年代の少女が立っていた。この少女もやはり同じようなぼろ着をまとい、川面に土塊を投げ入れて遊んでいた。彼女は手持ちの土塊を投げ尽くしても紅潮した面持ちで暫く突っ立って川面を眺めていたが、外套の頭巾を目深に下ろすと、掌の土屑を払い落としながらテオの隣へ腰をおちつけた。
「こんなのに飲み込まれたら一溜りも無いわね」少女はやや興奮ぎみに不吉な妄想を口にする。そして新たに手元の土塊を拾い上げると、また川面へと投げ入れた。
土塊はそれなりに派手な飛沫をあげたが、着水の音は濁流に掻き消されて聴こえない。その光景が彼女にはどこか非現実的なものに思えて、なぜだか妙に気に入っていた。立て続けに幾つもの土塊を川面に投げ入れ、また暫くだまって濁流を見詰める、朝からその繰り返しであった。
そんな彼女の様子を隣で見ていたテオは、うんざりだと言わんばかりに深い溜め息をつくと、何がそんなに楽しいのかと尋ねた。
少女は不愛想な彼の物言いが癪にさわった様子で、目一杯ふくれ面を作るとそっぽを向いて立ち上がり、手に付いた泥を腰の辺りで払い落としながら川岸へにじり寄った。
「セラナ、あまり端に近づくと崩れるぞ!」テオが大声を出した。セラナと呼ばれた少女は、あえてテオの忠告を無視すると水際に立って下を覗き込んだ。
彼女の足元を土砂を含んだ水が怒り狂ったように流れ過ぎてゆく。その流れに穿たれてちょうど不安定な形で迫り出した辺りに彼女は今立っているのだ。濁流にいつ足元を突き崩されても不思議はなく、周囲の川岸を見渡してもしがみ付けそうな草木は皆無であった。
もし足元が不意に崩れさったなら、先ほどの少女の言葉通り万に一つも助からないだろう。だが彼女は、まるで運試しでもするかのように、一向にその場から退こうとはしなかった。
テオは見かねて立ち上がるとセラナの背後にまわる。そして少女の外套の襟元を掴んで勢いよく自分の方へと引き寄せた。
少年の予期せぬ振舞いにセラナは問答無用で背中から地面へと引き倒された。彼女は受身もろくに取れずに背中をしたたかに打ちつけ、呻き声を発しながら少年を恨めしげに睨みつけた。
テオの方は弁明するつもりなどない様子で、代わりについ今し方まで彼女が立っていた場所をあご先で指し示した。少女がつられてそちらを見ると、脆くなった足場に細かい亀裂が幾つも入り、一部は濁流に削り取られた後であった。
「……ありがとう」セラナはばつが悪そうにしながら礼を述べた。
二人は土手の上まで登ると、向かい合って着衣の泥を払い落とした。セラナは転んだ拍子にできた腕の擦り傷を気にかけていたが、ふと前をみると、正面に立つテオが彼女の背後をじっと見ている事に気が付いた。
どうかしたかと尋ねてみても少年は返事をしない。おそるおそる己の背後を覗き見すると、二人から少し離れた土手の上に男が一人立っているのが見えた。
「親方……」テオが呟いた。セラナも酷く恐縮した様子で男の方へ向きなおった。男は大股歩きで近づいて来ると、右の手で拳骨をつくって二人の事を容赦なく殴りつけた。
「川へは近寄るなと言い渡しておいたはずだ」男はそれだけを言い終えると、後は黙ったままその場から立ち去った。テオとセラナはそろって殴られた辺りを摩りながら、遠ざかる男の後を追うように黙って歩き始めた。
セム川と支流の大きな川の一つが交わる辺りにネビアの街があった。
元はセムの河跡に沿って伸びる道の小さな宿場町であったが、街が出来てから数百年を経た今では二つの大きな街道が交わる商いの要所となり、アラナンド、南北セムに並ぶ街道沿いの一大都市となっていた。
現在のネビアはセム川の東岸を中心に発展し、支流との合流部にある中州にまで広がっていた。街の主要部の外周を高い石壁と堀が取り巻き、その外観はまるで城砦のようであった。そして堀には無数にある大小の門と同数の橋が掛けられており、そのいずれもが人通りで賑わっていた。ただひとつの特別な橋を除いて。
その特別な橋は街から直接セム西岸へと抜ける唯一の橋であった。随分と古い様式の木造橋で、他の場所にかかる橋とは明らかに建造された年代が違う。
橋には所々補強の跡はあるものの、鮮やかな塗装や華美な装飾といったものは一切施されておらず、日中であるのにその上を往来する人影は皆無であった。
そしてその橋につながる街の大門は普段は固く閉ざされており、脇に寂れた通用門と僅かばかりの衛士の為の詰所があるばかりであった。
何故この門ばかりが寂れた様相を呈しているのか、それはこの橋が他とは異なる目的で架けられた橋であるからだ。この門は俗に死者の門と呼ばれ、死者とそれを弔う者達のみが通るべき道の端堺(はざかい)であった。
そしてこの門の対岸には半分枯れかけか、或いは完全に枯れてしまっている木立の並びが続いており、その中を街から荒野へ向けて伸びる一本の道が貫いていた。
道幅は街道並みに広く取られていたが、敷石などで舗装されてはおらず、剥き出しの地面を突き固めただけの閑散とした通りであった。この通りの最も奇しき点はと言えば死者の門から続く道にふさわしい景観であった。
道の両側にはいくつもの木杭が打ち込まれており、その杭には魔除け、厄除けの類の護符や飾り細工が無数に打ち付けられていた。
これら道端の諸々は彼岸の不浄不吉を街に持ち帰らせぬための物であったが、そこに施された装飾や文字の様式に一貫性はなく、おそらくこの道を行き来した者達が各々勝手に打ち付けていった代物なのであろう。
そして門から続くこの不吉な道は枯れ林を抜けた先にひらけたセム川西岸の荒野へと続いていた。そこは広大な墓所のひろがる、いわばこの街の影の歴史とも言える場所であった。
ネビアの街で死を迎えた者は皆、死者の門を通ってこの道を西へと送られ、街の法に従って墓所の然るべき場所へと葬られるのだ。
今、この道を荒野から橋の先の門へと向かう一団がいた。その者達は皆一様に擦り切れたぼろ着を纏い、大きめの頭巾が付いた揃いの外套を羽織っていた。
一人は口髭を生やした大柄な中年男で、黒い垂れ布のあしらわれた長い儀仗を掲げて一行の先頭をゆく。
そのすぐ後ろを二つの小柄な外套姿が並んで歩き、彼等は鎖で吊り下げた香炉から煙を振りまきながら不思議な韻の小唄を口ずさんでいた。
そして最後尾には少し間隔をあけて二人の男女と彼等に付き添われた子馬が荷馬車を引いて通り過ぎて行った。
一行は枯れ林を抜けると橋を渡り切った辺りで歩みを止めた。先頭の男が一人で死者の門の傍に建てられた詰所へと向かう。
男は丁度顔を覗かせた衛士の一人と言葉を交わすと、自分の左手を掲げて相手に見せた。その掌には丸に十字の痣のような紋様が施されており、それを目にした衛士の男は露骨に嫌悪感を滲ませた。
衛士は背後に控えていた同僚に通用門を開けてやるよう指示すると、男と離れて控えていた彼の連れに向かって門を通るように合図を送った。
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