予見
第1話 予見(一)
老いたヨナスは荒野を見ていた。
小高い丘の上に立ち、痩せた木々の向こう側にひろがる荒れた大地に視線を巡らせる。強烈な陽射しにあおられ、風が熱波となって絶え間なく押し寄せてくるが、老人は瞬きひとつせず、ただ黙って立ち続けていた。
一際強い風が吹きぬけた。擦り切れた外套の頭巾がまくれ上がり、皺だらけの顔があらわになる。髪や髭は見事なまでに白一色であったが、ほつれた前髪の下からのぞく深緑の眼差しは老人の風体にそぐわぬ豊かな生気を宿していた。そこにあるのは神々しいとさえ言える老いであった。
風に着衣が乱されるのも厭わず、老人はただ黙って遠くを見つめていた。その視線の先――丘から少し離れたあたりに見える赤茶けた岩場の上空――には殺気立った様子の鳶達が群れて舞っているのが見えた。まるで天に登る柱のようだ。
おそらくそこに動物の死骸でもあるのだろう。大方はこの森から迷いでた哀れな獣が岩蠍の毒にでもあてられ絶命したに違いない。
ここは大荒野の北の果てにある古森の外れで、平原に暮らす民達から忘れられて久しい辺鄙な土地であった。
近くに人の暮らす集落などなく、荒野をゆく命知らずな商隊もこのあたりにまで立ち入る事はまず無い。無論このような土地にすがり付いて生きる動物もいるにはいたが、荒野のひろがりに比べてその数は少なく、だから鳥達は何時も飢えているのだ。
老人は森を迷い出た獣の不運を憂うでもなく、またご馳走にあり付ける鳥達を祝礼するでもなしに、まるでそうする事が彼の使命とでも言うようにただじっと事の成り行きを見守り続けていた。
日が西へと傾き始めた。ヨナスは照りつける太陽に一瞥をくれると、背に垂れた頭巾を目深にかぶりなおして荒野に背を向けた。
丘の反対側にはさきほどまでの景色とは対照的に広大な森がひろがっていた。乾いた下草を踏み分けながら斜面をくだる。歩き続けるうちに景色は移ろい、半刻程で森はその様相を一変させた。
痩せて疎らであった木々の並びは鬱蒼とした森となり、地上に堆積した枯れ葉や古枝のいたる所に苔やカビがはびこっていた。
茂みのすぐ向こう側では鹿の親子が首をもたげてこちらの気配を伺っていたが、ヨナスが近づいても一向に逃げようとしない。ヨナスもまた鹿達にこれといった関心を示さず、ただ視界の端で相手の様子を捕らえたまま、黙って傍らを通りすぎた。
足を動かす度にサクリサクリと落ち葉を踏みしだく音が森中に響きわたる。そこからさらに森の奥へと歩き続けると、空気はいつのまにか湿気と咽返るような土の香りに満たされていた。
不意に遠くの方で枯れ枝の踏み折られる乾いた音がしたが、先に進むにつれてその音は森中の至る所から聴かれるようになった。
ヨナスは立ち止まらずに頭巾の下から視線を差し向けた。すると目の前に横たわる倒木の向こう側から妙な影が現れた。視線を巡らせると影はひとつではなく、森のいたるところで蠢いていた。
影は、生き物の影としてはひどくぎこちない動きをしていた。それは遠目には獣の姿のように見えたが、よく見ると生き物ではなかった。影の多くは大猿のような形をしており、大きくせり出した背と異様に発達した腕が目につく。
だがよく見るとその体は毛皮や硬い皮膚で覆われてはおらず、かわりに枯れた枝や苔生した樹木の破片に木蔦が巻きついてできていた。そして所々に動物の物とわかる骨や死肉がのぞいており、いたる所から森の闇より濃い影色の揺らめきを立ち上らせているのがヨナスには見てとれた。
そしてその頭にあたる部位の真中、眼窩と思しき辺りに仄暗くきらめく陰火の如き一対の眼差しがじっと彼の方を見詰めていた。
「猩猩共がいつに無く騒ぎよる」ヨナスはひとり呟いた。彼らは古森に巣くう幽鬼の類であった。猿や猪などの動物の死骸に憑依して、落葉や古枝、新たな死肉などを取り込みながら普段はただ深い森の奥をさまよい続けているだけの森の妖かしであった。
ヨナスは別段この妖物を恐れるそぶりも見せず、なにやら呪い言葉(まじないことば)を短く口ずさむと、また何事も無いように歩き始めた。そしてちょうど大きな倒木の根元側を回りこんだ辺りでまた別の一匹が茂みの中から頭部をのぞかせた。
その猩猩(しょうじょう)は奇妙な体制のまま老人の頭巾の下をのぞきこもうとしたが、すぐに興味が失せたのか、倒れた幹の上に飛び乗るとそのまま木の向こう側へと姿を消した。
さらに歩みを進めると、平坦であった野分道はじき終わりを告げた。前を見るとちょうどその一帯が大きなすり鉢状に陥没しており、縁に立って窪地の下方をのぞくと不思議な色合いをたたえた扁平な形の泉が見えた。
泉は大してひろがりは無かったが、その水面は随分と深みのある色をたたえていた。そしてその泉の畔には古めかしく大きな木がそびえ立っており、よく見るとそれは一本の木ではなく、何条もの幹が絡み合いながらまるで一本の巨大な木のごとく天高くそびえ立っていた。
ヨナスは斜面の小道をくだると泉の畔にたつ大きな木の根元まで来た。外套の頭巾を下ろし、目の前にそびえる木を見上げる。
この巨木は古森の中で最もふるく、そして特別な木であった。ヨナスの先人達は皆この木の事を親しみと敬意を込めてただ「大樹」と呼び、彼もそう呼んでいた。
大樹は地精の衰えやまぬ大荒野にあって、大地の奥底に流れるという生命の根源に根ざした精霊樹の生き残りなのだ。そしてヨナスの目には大樹と泉の周辺に集う、生命の具現とも言うべき精霊達の姿が見てとれた。
それは捉え処のない大小無数の燐光のようで、時折小さな人の形をとると戯れるかのように彼の傍らをかすめて飛び去って行くのである。
ヨナスはしばし無言で大樹を見上げていたが、その眼差しはどこかしら寂しげであった。樹皮のいたる所に大きな洞が口を開き、巨大な根の多くがすでに石化の兆候をみせていた。
大荒野においてこれほど万物の盛衰を見続けてきた存在はあるまい。ヨナスは途方も無く古く大きなこの木の存在に改めて畏敬の念を覚えた。
この土地で千年以上を過ごしたヨナスもまた古森の全てを知るには若すぎたが、彼には自分が生きたよりもさらに古い記憶があった。
先人達はこの森を見守る守り人としてその生涯を終え、次の世代へと記憶を譲り繋いできたのだ。常人のそれよりも遥かに長い彼自身の人生と、彼の生まれるよりも前の先人達の記憶とをゆっくりと慎重に掘り起こしていくと――それは自らのものでない膨大な他者の記憶の中に自己をさらす行為であり、ともすれば己を見失う危険をはらんでいたが――恐らくはこの森の成り立ちまでさかのぼる事が出来るであろう。
とてつもなく古い記憶の中にはヨナス自身もその意味するところを理解できぬ記憶が多くあったが、それらも含めてこの古森に寄り添った者達の成した一連の記憶を彼は確かに保有しているのである。
だが、そうやって紡がれてきたこの記憶がついに一つの区切りを迎えようとしている事をヨナスは知っていた。
彼は夢を見るのだ。それは音も色もない世界の中で、古く尊大な大樹が天にのばした枝葉の数々が太陽の光を遮りながらゆっくりと崩落していく夢であった。夢の中で彼は大樹の傍にたたずみながら、ただその崩壊する様を見詰めているだけであった。
おそらくはその夢が現実となる時、彼の守り人としての役目は終わりを迎え、長らくこの森に囚われていた彼と彼の先人達の記憶は開放されるに違いない。
そしてその日の夜もまたいつもの夢をみた。これまで同様、無色無音の世界でそこだけ妙に現実的な質感を備えた精霊樹のシルエットがゆっくりと崩れてゆく。
夢の中で時は次第に加速し、精霊樹の崩壊と共に森中の古木が次々と地に臥していく。残された未熟な木々の間から精霊達のきらめきが一つまた一つと淡く小さくなって、まるで水面の泡のように消えていくのだ。
だがこの日の夢はいつもと異なっていた。夢には続きがあったのだ。
大樹の崩壊をひとり見守っていたはずの老人の傍らにはいつの間にか小さな人影が寄り添うように立っていた。
ヨナスは夢の中で彼の隣に並ぶ者の顔を確かめようと試みたが、その姿はシルエットのみで男とも女とも分からず、ただ若さとも幼さともとれる生命のたぎりのようなものを感じ取った。そしてシルエットの視線の先を辿ろうとしたところで彼の夢は終わりを迎えたのだ。
「……このような忘れさられた森に、いったい他に誰が居るというのだ」ヨナスは目を覚ますと丈の低い天上に向かって小さく悪態をついた。
薄い掛け布を払い退けて寝台から抜け出すと、口の中で何やら口ずさむ。すると近くの台の上に置かれていたランプに小さな火が灯る。
ヨナスは肌着の上から外套をはおり、壁に掛けられていた荒縄を帯代わりに腰に締めてランプに手を伸ばした。木戸を開け、部屋の外へ出てみるとそこは精霊樹と不思議な泉のある窪地のちょうど中腹辺り、土手になかば埋もれるように建てられた簡素な小屋の前であった。
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