西へ

第21話 西へ(一)

 テオとセラナは霧の帳のホルンベルが暮らす小屋に匿われていた。二人がホルンベルに言われて遠出の為の荷造りをしていると、夕刻になってマルセンが小屋を尋ねてきた。子供達が気まずそうな顔をしたまま黙り込んでいると、ホルンベルが二人の背中に手を添え、そっと前に押しだした。


「あのっ……ごめんなさい、親方。私がテオを巻き込んだの」セラナが言った。彼女は娼館へ忍び込んだ訳をマルセンに打ち明け、その後の一部始終をテオが包み隠さず話した。


 マルセンは子供達が話し終えるまで黙って聞いていたが、その全てを聞き届けると二人をそっと己の懐に招きいれた。


「二人とも、無事で何よりだ」マルセンは子供達の背中を優しく撫でてやった。そして身体を離すとテオの目を見据え、左手を前に差し出すように命じた。

 テオは一瞬表情を曇らせたが、すぐに覚悟を決めると、おとなしくマルセンの言葉に従った。


 マルセンは差し出されたその掌を両手で包み込むように握り、短く呪文を口にした。その刹那、テオの左手に鋭い痛みが走った。少年は声こそ挙げなかったが焼け付くような痛みに歯を喰いしばって耐えた。


 やがてマルセンがテオの左手を開放してやると、その痛みは嘘のようにどこかへ消えた。テオは己の手を引き戻し、恐る恐る掌を開いて覗き込んだ。するとそこにあったはずの丸に十字の紋様は白く薄い火傷の跡のようになっていた。


「汝、これより宵星の塚人ならず、影統べる技を振るう事能わざる成り、其は如何に……」マルセンは古めかしい儀礼句を抑揚無しに唱え終えるとテオの目を見た。

「……我、能わざる成りを知る」テオは少しの間をおいて返礼の句を返した。慣わし通りの唱和が成ると、少年は下唇を噛み締め、そっと瞼を伏せた。


「済まぬが、これ以上お前をここへ置いてやる事は出来ぬ」マルセンは諭すような声で言った。「塚の守人たる我等がその技を安易に用いてはならぬ。お前はその教えを破った。ましてや己を利する為に衆目の最中で用いたとなれば、我等はそれを罰せねばならん」マルセンは穏やかな表情のまま少年の反応を待った。


 いたたまれなくなったセラナが異議を唱えようとしたが、傍で控えていたホルンベルの無言の静止に一言も発することができなかった。

「親方、今までお世話になりました」テオのその一言にマルセンは深く頷くと少年の頭にそっと手を添えた。




 テオとセラナは夜が明ける前に墓所を出る事になった。二人は霧の帳の小屋でマルセンと別れると、ホルンベルに連れられてセム川の畔を目指した。途中、夜の見回りと称して宵星の集落を抜け出してきたマイラが合流した。


 荷物をホルンベルの愛馬に預け、会話も無いまま横並びの四人は夜の墓所を川沿いに西へと進む。空には雲ひとつ掛からぬ月が丸く冴え冴えと輝き、酷く冷え切った夜風に口元の吐息が微かにしらんで見えた。


「まだ水の流れは絶えないのね」マイラが呟いた。右手には月明かりに照らし出されたセム川がみえた。その流れに一頃の猛々しさは見られなかったが、水無し川と呼ばれるにはまだ暫くかかりそうであった。

 マイラはふと今朝方の集落での一幕を思い返すと、すぐ隣を行くホルンベルを見た。


「一つ尋ねてもいいかしら?」マイラが話しかけるとホルンベルは視線だけを彼女の方に向けた。

「今朝来たあのジベールって男、彼は何者? 貴方や親方は彼を知っているようだったけれど……」マイラの問い掛けにホルンベルはふむと頷いたが、暫く前を向いたまま黙り込んでいた。

 テオとセラナも集落での今朝の出来事はすでに聞き及んでいたが、マイラの今口にした名は初めて聞く名前であり、二人とも興味深げにホルンベルの方を見た。


「テオ、何か簡単な呪い言葉を口にしてごらん」ホルンベルは唐突に歩みを止めると少年を見た。セラナとマイラも歩みを止めると彼に習って少年を注視する。

「……?」テオは、ジベールと言う男の名前から突然話の矛先を自分に向けられて面食らった。


 ホルンベルの意図するところがよく判らぬまま、少年は塚で最初に教わった魔除けの呪い言葉を思い返すと、それを口に出してみた。しかし、少年はわずかばかりの呪い文句を言い終える前に言葉を詰まらせると、左手を押さえながら蹲ってしまった。


「テオ!」セラナが咄嗟に少年の名を呼び、彼の左腕を取ると、硬く握りしめられたその掌を開かせた。


 開かれた掌には失われたはずの宵星の紋様がくっきりと浮かび上がっていたが、ホルンベルがランプの灯りを近づけると、それは紋様と言うより負ったばかりの火傷の跡のようにぷくりと膨らんでみえた。


 ホルンベルは少年の腕を取ると何かの呪い言葉を短く唱えあげた。途端にテオを襲った鋭い痛みが和らいだ。

「すまない。少し驚かせてしまったね」ホルンベルは少年に一言だけ詫びると、これは失印と呼ばれるものであると説明した。


「塚を追われた者に施される呪(しゅ)の一つだ。これを刻まれた者が技を用いようとすれば呪がその者を責め苛む……いうなれば塚を追われた者の烙印だ」それからホルンベルはジベールと言う男も同じ失印を持つ者であると言った。テオは塚を追われた者と言うその一言に無意識に反応すると表情を曇らせた。


「……それで、その人は何をしたの?」テオはそう尋ねながら己の掌を見詰めた。テオに刻まれた失印は再び白く淡くなると、ただの宵星の紋様の名残に戻っていた。


 道中、ホルンベルはジベールが影祓いであった時分の話をして聞かせた。ジベールはマルセンと同じ世代の塚人で、丸に三ツ星の印を持つ影祓いであった。


 丸に三ツ星とは朱風の一門をあらわす証で、墓所の外れにある本草院を預かる者達がその身に帯びる紋様であった。彼等は薬種薬効の知識を広く修めて香や呪い道具を作る技に長けていたが、その中にあってジベールは若くから才覚を認められていた一人であった。


 だが彼には絶えず仄暗い噂話が付いてまわった。街衆や街道筋のならず者達と密かに関わり合いを持ち、見返り次第で調薬の技や呪をこめた品々を惜しげもなしに振舞ってやるという噂であった。

 やがて塚中に噂が噂で無いと知れ渡ると彼は失印を刻まれ、その腹いせに朱風の塚の大蔵から貴重な品々を持ち出して出奔したのだという。


「それで、何故またその人が現れたの?」セラナが尋ねた。ホルンベルはジベールがバローネ商会の名代を名乗った事を話すと、恐らく前々から彼等と繋がりを持っていたに相違無いと言った。


「ネビアやアラナンドの裏街には呪術、幻術を生業にする外法の輩が少なからずいると聞く。塚を追われた後のジベールも恐らくその一人となったのだろう」ホルンベルはそこで話を一旦区切るとテオを見た。

 彼はテオが娼館で用いた忌諱の護符を引き合いに出し、それがどんな些細な技でも人の知らぬ術は使い方次第で他人を出し抜けるのだと言った。


 例えばテオの用いた護符は人の内にある恐れや不安を煽り、近づく者を穢れ場から遠ざける為によく用いられるものだ。

 そしてそれは塚で最初に教わる初歩的な技の一つであったが、未熟なテオの振るう初歩の技であってさえセラナを見事逃がしてみせたのだ。当時の塚頭をして秀逸と言わしめたジベールの知識と技量ならば、裏の稼業で確たる地位を得るなど容易い事に違いなかった。


「それで、彼らは追ってくると思う?」マイラはバローネの追求がどこまで本腰であるのか半信半疑であった。ホルンベルはその問いには正直に分らないと答え、あるいはジベール達の来訪目的はただの脅しであったのかも知れぬと付け加えた。


「まあ、テオのしでかした事は彼等の面子を見事に打ち砕いて見せたのだから」ホルンベルはなにせ商売は信用第一と珍しく冗談めかして言ってみせたが、テオと、彼をそう仕向けたセラナは互いに面目無しといった様子ですっかり意気消沈してしまった。


「とりあえず用心するに越した事は無いでしょうね。それと貴方達のその服装……どこかで新しいのを調達しないと」マイラが言った。テオとセラナはマイラとお揃いの外套を身につけていた。宵星の塚の者達が役儀の折に用いる外套で、彼等はこの姿でいるところを娼館で見られているのだ。


「川向こうに集落がある。旅支度はそこであらかた揃えられるはずだ」ホルンベルは対岸を指差した。まだ薄暗い遠方の景色に古い吊り橋がかけられているのが見えた。




 橋を渡ってすぐの辺りに小さな集落があった。街道から分岐した細道がその集落を通り抜けて再び街道へと合流しており、道沿いには十軒程度の小屋がひしめき合うように軒を連ねていた。


 そこは人が定住していると言うよりは行商達が売り物を持ち寄って勝手に居ついていると言った様子で、立ち並ぶ小屋も廃材を寄せ集めた掘っ立て小屋のようなみすぼらしいものばかりであった。


 ただしここで扱われる品々は多岐にわたり、水に食料、衣類、代え馬から護身用の刀剣に至るまで旅に入用な物は一揃い手に入れる事ができた。


 一向は橋の袂で夜を明かすとその集落に立ち寄った。ホルンベルはこれから西の荒地を抜けてアラナンドの街を目指すのだと告げ、マイラに子供達の旅装束を見繕ってやるよう頼んだ。彼の方は皆とは別行動で他に入用な物を仕入れに行くことにして、後で集落の西口で落ち合う算段をした。


 テオとセラナはマイラに連れられて古着屋の前にやってきた。マイラはふむと唸ると二人を頭頂から足先まで値踏みするかのように眺めた。


 子供達は袖丈の異なる上着を着ていたがそれ以外は似たような身形で、膝下程度のズボンに脛まで覆う編み上げサンダル、そして暗い色の外套と言った、街道筋ではまず見かけない姿をしていた。


「何処から手を着けようかしらね」マイラはおもむろに手近な古着の山を漁り始め、すぐに足首まで届くズボンを二人分引っ張りだしてくると、それをテオに押し付けた。厚手のゆったりしたズボンで見た目も色も地味であったが、丈夫で通気性の良さそうな品であった。


 隣ではセラナが壁際に掛けられた小綺麗な衣服に目を奪われていたが、マイラはそんな物には見向きもせずに今度は肌着の上から羽織る上着を探してくると、それをテオの手にしたズボンの上に積み上げた。


 これもまた実用的な代物で、やはり地味な見た目であったが日中の強い日差しと夜の肌寒さから身を守ってくれるだろう品であった。マイラは、不服そうな目付きで彼女の選んだ品を見詰めているセラナを呼びつけると、塵除けの襟巻きは少女の好きなものを選ばせてやる事にした。


「いい? 軽くて丈夫な物を選ぶのよ」店先の棚へ駆け寄る少女の背後にマイラは念を押し、それから今度は子供達に合う旅用の靴はあるかと店主に尋ねた。店主は子供用の品はあつかっていないと答え、代わりに斜め向かいの店を紹介してくれた。


「マイラ、これ」セラナが二人分の襟巻きを手にして戻って来た。軽くて丈夫で、そして控えめであったが飾り縫いの施された女性向けの襟巻きであった。


 セラナの手にした襟巻を横目に見ながら、今度はテオが嫌そうな顔をして見せたが、マイラはそれを黙殺するとさっさと支払いを済ませ、向かいの並びにある革製品を扱う店に移動した。


 そこで子供達の靴と小さな荷物を吊りさげる為の革帯を選んでやり、二人に着替えを済ませるように促すと、今度は今着ている物より少し明るい色目の外套を選んでやる。




 ひととおり買い物を済ませ、ちょうど店を出たところで三人はホルンベルと合流した。彼は愛馬を馴染みの店に預けてあると言い、彼が手にしていた食料や飲み水の詰まった皮袋を皆で手分けすると集落の西口を目指した。


「なんだかご機嫌だな」ホルンベルが目元を綻ばせた。

「そうみたいね」マイラも微笑んだ。前を見ると憮然とした表情で歩くテオの隣でセラナが足取りも軽やかにはしゃいでいる。

 先程まではマイラの見立てに不満そうな顔をしていた彼女であったが、いざ新しい装いをその身に纏うと浮かれずにはおられぬ様子であった。


 そうこうするうちに通りの端にある雑貨店へたどり着いた。店の横手にはホルンベルの馬が繋がれており、彼が店先に顔を覗かせると店主が愛想の良い笑みを浮かべながら彼等を迎えてくれた。


「旦那、今日はまた珍しく大所帯ですな」店主は幾分禿げ上がった額の際を親指で掻きながらテオ達の事を見た。ホルンベルは店主の質問を適当にあしらい、まずは皆で抱えた荷物を馬のいる場所まで運ぶことにした。


 買い求めた荷物の分配はマイラに任せて再び雑貨商の店先に戻ると、ひとりふて腐れた様子のテオを呼び寄せ、目の前に並ぶ細工用の小刀から好きなものを一つ選ぶよう促した。


 ホルンベルのその一言にテオは満面の笑みを浮かべると、真剣な顔付きで目の前の品を端から順に見比べていった。そして折りたたみ式の万能小刀を手に取ると、すぐにそれが気に入った様子でホルンベルを振り返った。


 二人は支払いを済ませて店主に別れを告げると、マイラ達の元へと戻った。小さな荷物をテオとセラナに分担して持たせ、残りを馬の背にくくりつけた。


「どうやらここでお別れね」マイラが言った。彼女は子供達とそれぞれ言葉を交わし、最後にホルンベルと少し離れた場所で何事か話しこんでいた。

 やがて話を終えると、彼女は何も言わずに吊り橋へと続く道を独りで引き返していった。




 マイラと分かれた後、子供達を連れたホルンベルは街道へ出てそのまま西を目指した。太陽はまだ昇り始めたばかりで、向かいから吹き寄せてくる風はやわらかく涼しげなものであった。


 人の往来は疎らで、朝の仕入れに向う馬車や封書を運ぶ早駆けの馬、夜通し旅を続けていた者達が時折目に留まる程度であった。


 その誰もが道ですれ違う他者には目もくれず通り過ぎていく。ホルンベル達は幅広の道の端をただ黙々と歩き続け、やがて街道が大きく南へ曲がる辺りまで来るとその場で歩みを止めた。


 彼等は別段座って休む訳でもなく、立ち尽くしたまま暫く往来の様子を眺めていたが、人通りが途絶えたと見るや街道を外れて荒野へ足を踏みいれ、そのまま北西目指して進み続けた。


 辺りは痩せた木がぽつぽつと生えており、他には潅木の茂みやら疎らな雑草の群落が散在するばかりであった。露出した地面は一面ひびだらけであったが、ところどころに雨季の名残で半乾きのままの泥池がとり残されていた。


 テオもセラナも買ってもらったばかりの靴や外套の裾がみるまに泥や土埃に塗れていくのを悲しそうに見ていたが、それも最初の内だけで、どこまでも続く荒野を歩き続けるうちに、いちいち気に病むのが億劫になってきた。

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