第29話 分霊のヨナス(五)

(そこまでだ)声が静かに発せられた。テオの背後に広がる暗闇の中からだ。


「ヨナス……?」朦朧とする意識の中、テオひとりだけが今発せられた言葉の意味を理解していた。ジベールもそれが古い言葉の一つである事にはまだ気付いておらぬ様子で、ただ気配の主を確かめようと振り向いた。


「誰だ、貴様!」テオを連れ去ろうとしていたジベールの手下の一人が気色ばんだ。男は少年の肩から手を離すと声のする方へ向き直った。


 闇の中から現れたのはくたびれた外套に身を包んだヨナスである。ヨナスは灯りの届くぎりぎりの場所に留まると、その場に会する一同を見渡した。淡い橙色の灯りに照らしだされたヨナスの瞳は、何故かしらいつもより深い緑色をたたえて強く輝いて見えた。


(その子等を離してもらおう)ヨナスはジベールに視線を定めると再び言葉を発した。今度はジベールも彼の話す言葉の意味を理解した様子だ。


 二人はしばく無言のまま対峙した。濃紺色の頭巾の下から差し向けられた暗く澱んだ眼差しが相手を値踏みするようにとらえ、深い緑の老いた瞳がそれを真っ向から受け止める。辺りは再び静寂に包まれ、それとは裏腹に、場には何やら剣呑な空気が紛れ込んだ。


 その静寂を崩したのはヨナスであった。彼は暗闇の囲いから歩み出るとテオの背後に立った。少年の傍にいた男は突如現れた目の前の男の只ならぬ雰囲気に気圧され立ち尽くしていた。だが、男はふと我にかえると、ヨナスの己を無視するような態度に顔を紅潮させ、横合いから腕を伸ばした。


「止せ!」鋭く言葉を発したのはジベールであった。だがその静止を振り切り、頭に血を上らせた手下の男はヨナスの胸倉をつかんで強く締め上げると、その痩せた身体を己の前に引き据えようとした。


「ひっ!」その場には似つかわしくない短い悲鳴が上がった。口にしたのは掴みかかった男の方である。


 ヨナスは男に引き据えられるまま、ただ黙って相手を見詰め返しているだけであったが、掴まれて露わになった肌の至る所から仄暗い瘴気のゆらめきを立ち上らせていた。


 そのゆらめきはテオやジベール以外の者達にもはっきりと見えるほどの色濃い闇であった。男は掴んだ手を離すことも忘れ、肌伝いに這い登ってくる黒いものを恐怖の眼差しで迎え入れた。


「愚か者が……」ジベールは吐き捨てると、懐から護符を数枚取り出した。その護符を掌の内に潜ませ、一言短く呪い言葉を唱えると影に侵されつつある部下の腕をおもむろに掴んだ。そして掴んだ勢いそのままに、額の失印からひろがる疼きを噛み殺しながら部下の身体をヨナスから引き剥がした。


 ヨナスから離れた男はその場に崩れ落ちると、訳の分らぬ言葉を発しながら腕にまとわりついた影の名残を振り払おうと仕切りに腕をばたつかせていた。


「貴様、死人か」ジベールは初めて畏怖の念を込めてヨナスを見た。最早部下の男も、そしてテオ達の事も彼の眼中には無かった。あるのは生きながらにその身に影を帯びた初老の男の姿であった。

 塚にあっては若き偉才と讃えられた事もあるジベールにして、目の前に立つ男の存在は許容し難い、不可解なものであった。


(この子等は返してもらおう)ヨナスが静かに宣言した。ジベールは失印によってもたらされた額の疼きの事も忘れ、黄色く汚れた乱杭歯を剥き出しにして見せた。

(調伏してくれん!)ジベールは無意識に古い言葉でそう応じると、手にした護符を破棄して、その場から一歩後ずさりした。それから左の手首にまかれていた呪い紐を解き、それを目の前に突き出した五指の間に複雑に絡めてゆく。


(影原の果てに疾く吹く風は陰に還り、果てより来る風もまた陰に還らん)ジベールは古式の呪い言葉を口早に唱え上げながら、呪い紐を巡らせた左の掌をさらに前へと突き出した。

 その先には彼が今、死人と称したヨナスの姿があった。そしてその身体に纏わりついた影の気配はジベールの言葉の抑揚に合わせて揺らめきの激しさを増してゆく。


 ヨナスのまとう影はジベールを取り込もうとするかのようにゆっくりと宙を流れ始めたが、それらは二人の間を埋める僅かばかりの空間を漂う間に次々と霧散するように消されて行く。


 ジベールは語気を更に強めると小刻みに震えながら、前に突き出した左腕に右の掌を添えた。額の疼きが彼自身の皮を剥ぐような痛みに変じても彼は言葉を断ぜず、魔鬼の如き形相で苦痛に耐え続けた。




 ヨナスは他者が影と呼ぶものが己の身体から引き剥がされてゆくさまを不思議そうに見詰めていた。彼にとってそれはただの影ではなく己の一部なのだ。


 彼の眼には仄暗い闇の粒子のそれぞれに小さな光が宿って見えていた。その光には様々な情景が込められており、その輝き一つ一つが古森の男から与えられた、自らを形作る記憶そのものである事をヨナスは知っていた。


 そして彼は己から湧き出る記憶の断片の中から、生命の営みの裏にあるものを選んで目の前の術者へと差し向けた。それは無尽の生の裏で繰り返される、同じ数の死に関わる記憶であった。


 ジベールへと伸びて行くそれら記憶の断片達は、ジベールの駆る呪により更に細かく無意味なものへと変ぜられていったが、それでもその暗い靄は着実に相手との間を縮めていった。


 そしてその記憶の奔流がより近くへ忍び寄るにつれ、ジベールは自ら繰り出す消散の呪を強めざるをえなくなり、その呪が強まる程に彼はまた別の呪、失印の戒めによって自らを追い込む破目に陥った。


 やがてジベールの忍耐が限界を迎えたとき、濃紺の法衣をまとった外法師はゆっくりと膝から崩れ落ちた。


 彼の額の失印は今や不吉な色合いに染まり、そこから顔の半分近くを覆うように血脈の筋がひろがっていく。その幾つかは左の眼窩に落ち込み、目尻の裾から赤い血の珠がぷくりと染み出るように膨らんだ。


 ヨナスから放たれた記憶の奔流は、今や遮るもの無しに佇むジベールの方へと流れ出した。ジベールは呪い言葉をさらに口にしようと試みたが、その口が新たな言葉を紡ぎ出す事は無かった。


 ジベールは朦朧とする意識の中でヨナスの顔を見た。失印の戒めによって侵された左目に手を添え、残る一方の眼で相手をにらみつけた。掌の下から血の雫が量を増して滴り落ちていく。


 ジベールは頭巾の下で顔面をひきつらせるように痙攣させながら、残された僅かな意思の力のみでなおも頭の中に流れ込んでくるヨナスの記憶に抗おうと試みた。だが、その抵抗は酷く弱々しいものでしかなかった。


 ヨナスはその表情から、ジベールが記憶の断片を彼らの言うところの影として受け入れたのだと理解した。


 本来、生と死は白と黒のように分かつべきものでは無いのだが、人は自らの知り得ぬ物事を闇と捕らえ、忌み嫌うものを影と名づけるのかもしれない。


 森に蔓延する何かの死は他者の生に結びつき、誕生と死の連鎖は土や水の普く広くにまで及ぶ。人や獣が欲する自らの生はつまり他者の死であり、ある者は生まれながらに寄生されて死を迎え、別の者は生をつなぐ為に死を創り出すのだ。


 どこにでもあるそれら普遍の事象を、ジベールは影と捕らえて自らの生存を蝕むものとして抗い、そして敗れたのだ。


 ヨナスはジベールが意識を失うのを見届けると、相手を記憶の戒めから開放してやった。途端に彼自身も眩暈のようなものを覚えた。


「……化け物だ」ジベールの手下の一人が言った。声を上げたのは初めにヨナスに掴みかかった男だ。男はジベールの事もアマディオ達の事も見捨て、ひとりで闇の向こうへと走り去ってしまった。ジベールは膝を屈したままの姿勢で白目を剥き、残された男達も既にこれ以上事を荒立てる気は失せた様子であった。

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