第30話 分霊のヨナス(六)

 ミアの言っていた橋はひどく古めかしく簡素な造りのものであった。セムの街を離れ、街道を西へ向かうと程なくして現れる寂れた脇道の先にかかる橋だ。


 夜闇の中でその細道を見つけ出す事は容易な事ではなく、ちょうど街の北西の門から徒歩で一刻ほどの場所に小さな道標が立っていたのだが、それを見落としていれば恐らく橋には辿り着けなかったに違いない。


 川底を見ると雨季の出水を終えてもはや地表に水は流れておらず、その水無川の上を大人一人が渡れる程度の幅の吊り橋が掛けられていた。


 その橋を今、灯りも持たずに渡らんとする者達がいた。テオとセラナ、それにヨナスの三人であった。彼等はジベール達が引きあげるのを見届けると、夜明けを待たずに施設を出たのだ。


 厄介事にミアを巻き込んでしまった事がテオとセラナには気がかりでならなかったが、ミアはひとりで街に戻ると言った。彼女は事の成り行きをアランに知らせねばならないと言い、あとで仲間の誰かを必ず差し向けるからと、川の対岸で連絡を待つようテオ達に言い含めた。


 三人とミアは街の北壁の外れで別れた。テオ達は街の外壁から距離をおきながら月明かりを頼りに夜の荒野を横切る事にした。城門を避けて街道に出る為だ。施設での一件でバローネの手の者達も迂闊に手出しはしてこないであろうが、あとをつけられたくなかったからである。


 そこから先は特に宛てが有る訳でも無かったので、街道に出てからミアの奨めに従って川の対岸に渡る事にした。彼女の話では対岸には打ち捨てられた集落跡が幾つもあるとの事で、暫くはそこで身を潜ませ、アラン達からの連絡を待つ事にしたのだ。


 いずれにせよこの土地を遠く離れる事になるのだろうが、その為にも彼等には人の助けが必要であった。テオやセラナの手元にはホルンベルの残していった保存用の食料と僅かばかりの銅貨、そして呪い道具の類が幾らかあるだけであった。

 アラン達には世話になるばかりでその恩に報いる見込みも無かったが、テオ達が頼れる者など他に居なかった。


「本当にここをわたるの?」セラナが言った。三本の親綱の上に木の板が載せられただけの簡素な足場が対岸に向かって伸びており、手摺り替わりの補助綱がさらに一本張られていた。


 テオは橋の強度を確かめながら、一歩一歩足を前に踏み出した。その歩調に合わせて足元からギシギシと嫌な音が聞こえてきたが、存外造りは丈夫なようで板を踏み抜いて川底に落ちる心配は無さそうであった。


 テオは試しに三分の一ほど橋をわたった辺りで振り返ると、橋の手前で様子見していたセラナ達にも後に続くよう手招きして見せた。


 どのみち対岸へ渡るにはこの橋を通る他は無かいのだ。この辺りの川はネビアの近くよりも川幅が広く、橋の数が少ないのである。

 たとえ川底に水が見えなくともまだその下には多量の地下水が含まれており、そこを無理に渡ろうとすればひどく足をとられ、下手をすると身体ごと飲み込まれてしまうだろう。


 もちろん街に戻れば西岸の墓所へと通じる橋は他にあるのだろうが、彼等は大手をふって葬儀に出向くわけでは無いのだ。


 先を行くテオの手招きに渋々といった様子でセラナが従い、少し遅れてヨナスが渡り出すと橋はいよいよ複雑に揺れ始めた。だが慣れてくるとその揺れは大して大きなものではなく、足場は月の光に照らし出されて灯火が無くても十分見通しが効いた。


 テオの背後でぶつぶつと独り言を呟いていたセラナも、橋の半ばを過ぎた頃には慣れた様子で脚を交互に前へと繰り出し、時折足元にひろがる川底を覗き込む余裕まで見せていた。


 三人はゆったりとした足取りで橋を渡り終えると暫くその場で休むことにした。


 川の西岸には痩せた林がひろがり、掛け橋の先には野分け道のような細道が枝分かれしながら奥へと続いていた。


 テオは道から外れて手頃な枝振りの木をみつけ、街道側から隠れるようにその木の裏側に荷物を下ろした。背嚢に吊り下げていたランプを取り外して灯をともすと、セラナとヨナスもまた自然と灯りの周りに集まって来た。


「あっ……」突然、セラナが妙な声を上げた。

「私達、まだお礼を言ってないわ」少女はそう言うとヨナスを見た。すると言葉を話せない彼女の分までテオがたどたどしい口ぶりでヨナスに礼を述べた。


 ヨナスはただ目元を綻ばせるばかりで黙ったままだ。その頭巾の奥から覗く顔は奇妙なくらいに青白く空き通って見えた。それはテオとセラナに墓所で見た霊達の事を思い起こさせた。


「おじさん、何だか具合悪そう……」セラナは袈裟懸けにしていた水入りの皮袋を外すとヨナスに差し出した。街を離れる前にミアが用意してくれた物であった。ヨナスはそれを受け取ると一口だけ口に含んで、再びセラナへと手渡した。


 返された皮袋に手を伸ばそうとして、セラナは一瞬その手を止めた。声こそ出なかったものの、彼女の表情には驚きと、そして恐怖の念がありありと表れていた。彼女はすぐに表情を取り繕うと、申し訳無さそうに皮袋を手に取った。


「ごめんなさい。でもまた影が……」セラナが言った。ヨナスは何も言わずにその手を引き戻したが、今度はテオが身を乗り出すと、ヨナスは影人なのかと尋ねた。


 ヨナスは少しの間をおいてから分らないと答えた。彼は、テオ達の言う影人がどういうものなのか知らぬと答えながら己の掌を見詰めた。そこには子供達が影と呼んだ記憶の断片がゆらゆらと揺らめきながら、彼の身体から乖離していくのが見えた。


(もう、時間が無いのかも知れぬな)ヨナスは誰に言うとも無しに静かにそう呟いた。


(触っても平気?)テオはそう言うと腕を前に伸ばした。ヨナスは珍しく驚いた様子をして見せたが、すぐに元の表情を取り戻すとテオの好きなようにさせてやる事にした。


 セラナが不安そうな面持ちで見守る中、テオは何かに憑かれたように、ヨナスの腕からゆっくり立ち昇る影の揺らめきにそっと手を触れさせた。


 影はテオの指先に触れると、まるで新たな宿主を得たとでもいうように少年の五指の間へ絡み付いてきた。その影はいつもより色濃く活発であるように見えた。


 セラナが泣きそうな顔をして少年の行為を引き留めようとしたが、テオは空いている方の手で彼女を制すると、自らの腕を這い上ろうとする影を無表情に観察し続けた。なぜそうしたのかテオ自身にも分らなかったが、ジベールを打ち負かした時の影とはどこか質の異なるものに感じられたからだ。


(己を取り込まれるな)ヨナスはテオに一言だけ忠告を与えると自ら腕を引いた。影の揺らめきはヨナスの腕から離れて取り残された。

 影は少しずつ薄れながら、なおもうねり続けて少年の指の間に留まっていた。テオは無意識に喉を鳴らし、影の纏わり付いた自分の手をより近くで観察しようと試みた。


 影の揺らめきはやがて無数の闇色の粒子となって霧散し始め、次第に小さく淡くなっていく。そして完全に消え去ろうとするまさにその刹那、粒状の光がテオの目の前で飛散した。


 少年は思わず顔をのけぞらせたが、輝きを孕んだ闇色の粒子は彼の肌を通り抜け、そしてどこかへ消え去ってしまった。


「……あぁ……これは…………」テオは宙を見据えたまま、熱に浮かされたように声を発した。セラナの呼ぶ声も耳に入らぬ様子で僅かに頬を震わせた。


 少年は闇の弾ける瞬間に幾筋もの光の筋を目の当たりにしたのだ。そしてその光の多くは彼の肌を、それから瞳を射抜いて通り過ぎ、瞬きひとつの間に様々な像を彼の脳裏に閃かせた。


「……オ、テオ!」少年は肩を激しく揺さぶらてようやく我を取り戻した。悲壮な顔をしながら彼の両肩を掴むセラナの姿が正面に飛び込んで来た。




 テオ達は束の間の休息を終え、再び歩き始めた。橋を渡ったあたりから野分道が林の中へと続いている。その道をミアに教えられた通りに進んで行くと、やがて小さな集落跡に辿り着いた。これもミアの言った通りであった。


 木々に囲まれるようにして道の両側に木造の家屋が何軒も立ち並んでいたが、その何れもが丈の高い下草に囲まれ、屋根や壁のいたる所に蔓や地衣類が繁茂していた。


 ミアから聞いた話によれば、昔はセムの西岸にも集落が幾つも存在したのだと言う。ここもその一つであったが、アラナンド周辺で大規模な農地の開発が進むにつれて住民達は次々にそちらへ移り住むようになり、川のこちら側にある集落は何年も前に完全な廃墟となったのだそうだ。


 三人は建ち並ぶ家屋の中から屋根の残されている比較的まともな家を選ぶと、そこを当面の宿とする事に決めた。建物の中に入ると、壁や床板などはまだしっかりとしていたが、埃の層と蜘蛛の巣の厚みは尋常ではなかった。


「墓所の物置小屋の方がまだましよね」セラナが正直な感想を漏らした。建物は平屋造りで、台所を兼ねた居間の他に小さな部屋が二つあった。


 裏戸の傍には梯子が掛けられており、荷物が幾らか詰め込める程度の半屋根裏へと続いている。念の為に彼等の他に誰もおらぬ事を確認すると、今夜は居間で眠る事にした。


 居間の間取りはけっしてひろくは無かったが、家財道具の殆どが持ち出されたあとの家の中はうら寂しい開放感に満ちていた。


 テオは灯りが窓から外へ漏れ出てしまわぬように残されていた窓の覆いを全て閉ざした。ランプを床の上に置くと、身に付けていた荷を解いてくつろぐ。セラナとヨナスも少年にならって灯りを囲むように三人で輪になって座した。


 テオが自分の背嚢から油紙の包みを取り出し、中から乾燥肉の切れ端を一切れ抜き取ると、包みをセラナへと投げてよこした。彼女も同じように包みから肉片を一切れ取り、残りをヨナスに差し出す。


 ヨナスはそれを断ると袂から小さな革袋を取り出し、口紐を緩めて中から一粒の丸薬を拾い上げた。それは何かとテオが尋ねたが、ヨナスは詳しく説明しようとはせずに、彼の食事はこれで十分であると告げた。


 ヨナスは小さな丸薬を口に含み、皮袋から水を一口流し込んだ。途端に口腔一杯に土の香りがひろがる。丸薬は古森で採れた土に苔や薬草の類を加えて水で練り上げた物であった。ヨナスも生身の姿をとる以上、時には食事をとる事もあったが、彼の本質は古森の守り人が流した血の数滴である。


 それゆえ彼には飢えに対する欲求が常人よりも少なく、代わりにその精神を留めおく為の拠り所が必要となるのだ。それがこの丸薬であり、生まれた森の香りを噛み締める事で淡く消えさろうとする記憶の断片を繋ぎとめる事ができた。


「本当にいらないのかしら?」セラナは心配そうな顔をしながら乾燥肉の包みをテオに返した。彼女には、ジベールとの対峙を目の当たりにした今もなお、ヨナスがただの老いた人であるとしか思えなかった。

 その一方でテオはヨナスの常人ならざるところを感じ取り、彼が何者かは分らなかったが、自分達の理解の範疇からははるかに超えた存在であると理解していた。




 三人が食事を終えると早々にランプの灯は消された。先の見えない逃避生活に油は欠かせないからだ。代わりに窓の覆いが少しばかり解放されて外から差し込む月の光が部屋を照らし出した。


 床に細く長く伸びた月明かりは、埃の層で反射されてその淡い光を部屋中にいきわたらせた。窓の傍ではセラナが外套に身を包んだまま横になって眠っている。


 部屋の角では同じく外套に身を包んだテオが壁に背をもたれさせて休んでいたが、少年は呆けたように宙を見据え、先ほどヨナスの身体に触れた時に見えた影の中の幻影を思い返していた。


(眠れぬか)ヨナスの声がした。それは低く小さな声であったがテオの意識を瞬時に現実へと引き戻した。


 ヨナスは裏戸の傍から起き上がると、足音も立てずにテオの傍へとやってきた。そして少年の隣へ並んで座ると、彼は己を見失わぬよう少年に忠告を与えた。


 ヨナスは、自らの記憶の断片からテオが何か見出したのを確信していた。かつてホルンベルには旅をする理由の背後にある景色を見せ、ジベールには数多の生命の営みの生と死に関する記憶を送り込んだ。


 だが、テオはヨナスから乖離する記憶の中から一掬いの断片を無作為に掴んで覗いたのである。それがどの様な記憶であれ、テオの理解を超えたものであれば影としか映らなかったはずだ。

 だがそのあとの少年の表情から察するに、テオは彼の記憶から何かしら読み取るものがあったようだ。


 年長のホルンベルでさえ他者の記憶の流入に翻弄された事を考えると、まだ年端もいかない少年がヨナスの記憶を垣間見て平静でいられる事実は単に好奇心や感受性の若さで説明できる事ではなかった。


(何が見えた?)ヨナスが尋ねた。

 テオは分らないと答えた。確かに何かが見えたはずなのだが、言葉で捕らえようとするとその像がするりと思索の手の中から零れ落ちてしまうのだ。瞼を閉じると今でも先程垣間見えた像が閃いて見えるのだが、その一つ一つは一瞬の閃きでしかなく、しかし何かしらテオの心に語りかけようとしているようでもあった。


(土の香り……)テオがぽつりと言った。少年はそっと瞼を閉じ、己の心を思考から解き放った。すると頭のどこか遠くで閃いていた像の幾つかが鮮やかな質感を伴って脳裏をよぎり始めた。


 彼はその一つ一つを直感で短い言葉に置き換えていった。古い森、暗く覆い被さる樹冠、暗闇に潜む眼、水、朽ちた木、苔むした岩、それが何かはよく分からぬが獣の死骸……テオが言葉を紡ぎ出す毎にヨナスはその顔を驚きで満たしていった。


 それはテオ達の暮らす荒野にありふれた枯れ林や忌み森ではなく、ヨナスの知る古い森の景色に他ならない。少年はそれらの景色を、ヨナスに手ほどきされた訳でも無しに自ら垣間見たのである。


 ヨナスの生まれた古森にまつわる記憶の断片を影としてではなく、少年が口にしたような像の閃きとして捕らえる事が出来たのは、テオ自身にその像を受け入れるだけの素養があったからに他ならなかった。


 この少年は、あるいはヨナスの生まれた古森と似た景色を知っているのかもしれない――ヨナスは直感でそう感じとった。それはつまり、長く不毛に思えた分霊のヨナスの長い旅がこの少年との出会いで実を結ぶかもしれぬという希望にほかならなかった。

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