第18話 バローネの館(三)

 セラナはまだ館の地下にある物置に潜んでいた。マルセン達が引き上げてから随分時間が経ったはずであったが、その後も時折廊下に人の往来する気配がして、身を隠している部屋の外へ出る機会を逸してしまっていた。


 こんなはずではなかった。ただ廊下の突き当たりにある部屋を一度自分の目で確かめておきたかっただけなのだ。


 勿論、街の娼館へ忍び込むなど正気の沙汰でない事はセラナ自身もよく承知していたが、同じ馬車へ載せられて里を離れた幼馴染達が病に臥してただじっと死を待っている様を思い浮かべると居ても立っても居られなくなったのだ。


 そして今朝、マイラがバローネの件でテオを呼びに来た時、セラナは弔いの一行の後をつける事を思いついた。


 宵星の一門と同じ外套を身にまとえば館の廊下で誰かとすれ違っても怪しまれる心配はなかったが、奴隷達の押し込められている部屋の前で誰かに見咎められたら彼女に申し開きの余地はなく、また当然その部屋には鍵が掛けられているはずであり、定期的に見回りの者も訪れるに違いなかった。


 廊下の遠くの方で扉が閉じる音がした。セラナは隠れ潜んでいた物置部屋の奥から這い出ると扉に身体を寄せた。


 蝋燭の炎が外に漏れでない様に気を付けながら、彼女はそっと扉に手を添えた。僅かに押し開いた隙間に耳を近づけ、外の様子をじっと窺ってみる。すると廊下の奥から二、三人の話し声が近づいて来るのが分った。


 話し声は階段の所で曲がると上の階へと去っていった。恐らく館の使用人達が病人のいる部屋へ食事でも運んでいたのであろう。それからさらに暫くの間廊下の気配を窺ってみたが、上から別の誰かが降りてくる気配はなかった。


 セラナは一瞬ためらいの表情を浮かべてから、後ろ手に持っていた蝋燭を振ると、灯りを消した。心臓の鼓動がまるで外から聞こえてくるようにドクドクと聞こえてくる。セラナはすべり出る様に扉の隙間から廊下へ出ると、通路の奥に見える角部屋を目指した。


 部屋の扉にはやはり鍵が掛けられていたが、中を覗き見る為の小さな窓がはめ込まれていた。丁度、大人の胸の高さにある小窓は子供でも少し背伸びをすればとどく程度だ。


 セラナは小窓の覆いを開けて中を覗きこんでみた。部屋の中央に蝋燭の灯りが一つ置かれているのが見えたが、他は薄暗くてよく見えなかった。

セラナは改めて廊下が無人である事を確かめると、思い切って部屋の中にいる者に話しかけてみる事にした。


「そこに誰か居るの?」少女の呼びかけに誰も応じる者はいなかった。二度、三度と呼びかけてようやく扉の反対側で何かが動く気配がした。


 セラナが廊下の様子を気にかけながら辛抱強く待っていると、小窓の向こう側から一人の男が顔を覗かせた。マルセンと会話をした青年であった。その目は酷く充血しており、顔の肉付きはひどくやせ衰えていたが、その表情はなぜかしら穏やかなものに見えた。


「私、セラナ」セラナは外套の頭巾を取り去ると青年の前に顔を晒け出した。

「……子供がこんな所で何をしている?」青年が訝しげな表情をした。

 セラナは自分と同じくらいの子供を捜しているのだと伝え、ファビオとロッタと言う名の子はいないかと尋ねた。

 青年はなおも彼女の事を怪しむ目つきで見ていたが、ややあってこの部屋にセラナと同世代の子供は居ないと答えた。その返答にセラナが顔を俯かせると、青年は無言のまま扉の傍を離れようとした。


「待って」セラナは青年を引き止めた。「……私もその子達と同じ馬車に載せられていたの。砂嵐の晩に逃げ出す事が出来たのよ」青年は少女の言葉に驚くと、扉の小窓から再びその顔を覗かせた。

「あの砂嵐の中を一人で逃げきれたのか……」青年は人買い達の商隊が荒野で立ち往生したおりに別の馬車に乗せられていたと言った。彼は警戒心を解くと、今度は諭す様な声音でここからすぐ立ち去るようセラナに忠告した。


 セラナは相手の言葉に静かに頷いてみせたが、この館にまだ他の奴隷達は居るかとなおも質問を重ねた。青年は分らないと答え、すぐに他の者達はどこか他所へ移されただろうと言いなおした。


「奴隷市で売れ残った者達はまた別の市へ運ばれる……ここに残されているのは売り者にならぬ者ばかりだ」青年はそう吐き捨てるとあとはただ悲しそうに微笑んで見せた。

「さあ、もう行った方がいい」彼はその言葉を最後に扉の傍を離れると、部屋の暗がりの中へと消えた。




 セラナは再びさきほど潜んでいた地下室に戻ると奥の物陰に身を潜ませていた。彼女は角部屋の青年と会話を終え、一旦は上の階の様子を確かめに行ったのであるが、人の往来が昼間とは比べ物にならぬ程多くなっていた。

 これでは誰にも見とがめられずに館をでるのは無理だ。ここはネビア随一の娼館。日が落ちてからが商売時で、当然裏方の者達ものんびり札遊びなどに興じている訳にはいかないのである。


 セラナは今すぐこの館から出る事を諦めると、仕方無しに一先ず元居た暗がりに戻って機械をうかがう事に決めた。

 途中、下働きの者達が何度か彼女の隠れる物置部屋に入ってきたが、皆先日の幽霊騒ぎを知っているせいか、手短に用事を済ませると早々に部屋を後にした。

 おかげで彼女は誰にも見つからずに済んだのだ。だが、さすがに蝋燭の灯りは消さざるを得なかった。そして今彼女は完全な暗闇の中にいた。


 すぐ傍に女の亡骸が置かれていた長台があった。振り払ったはずの恐怖がまた心の奥底から沸々と湧き上がってくるのがわかる。その恐怖は全身に染み渡るようにゆっくりと頭の中で拡がって行った。


 セラナは自分の愚かな振る舞いを改めて悔いた。里の幼馴染みの行く末が知れたところでそれが何だというのだろうか……自分で友を助けてやれぬばかりでなく、自分を気遣ってくれる塚の者達の好意を無為にし、下手をすればその彼等を面倒事に巻き込みかねない行為である。


「テオ、マイラ……」セラナは祈るように二人の名を口にした。その声は消え入るようにか細く、膝を抱えている腕の震えが止まらなかった。


 セラナは手探りで部屋の片隅に放置されていたぼろ布を手繰りよせるとそれを頭から被り、あとはひたすら息を潜めた。恐怖と後悔の念に苛まれながら、緊張が限界に達したのか次第に思考が働かぬようになる。なにもかもが面倒になり、気が付くといつの間にか瞼を閉じてうとうとし始めていた。


 どのくらいそうしていただろうか、まどろむ意識の片隅でセラナは遠くで人の動く気配を捉えた。急激に現実の世界へと引き戻されていく。その気配は今廊下にあり、少女の隠れる物置部屋の前で止まるとこの部屋の扉を静かに押し開けた。


 セラナは被っていた布切れの端から顔を覗かせると、暗闇の通路の向こう側へと意識を這わせた。その気配は荷物を運び入れるでもなく、また物の散乱している棚で何かを物色するわけでも無い。ただ黙ったまま入り口の辺りに留まっていた。明らかに部屋の中の様子を窺っている様子であった。


 やがてその気配はセラナの願いとは裏腹に部屋の中へゆっくりと足を踏み入れてきた。暗闇の向こうの相手も灯りの類は持っておらぬようで、狭い暗がりの中を手探りで掻き分けながら、部屋の奥へ奥へと近づいて来た。


「……ラナ、セラナ…………」心臓が口から飛び出そうになった。声の出どころはちょうど戸棚の間の通路を抜けた辺りだろう。その声は決して聞き違いなどではなく、セラナの名を囁いたのである。

「テオ?」セラナは恐る恐る少年の名を口にした。酷くかすれた小さな声であったが、闇の向こう側の相手には十分であった。

「そこに居るのかい、セラナ?」今度は間違いようの無いテオの声であった。




 暗がりの中でテオはセラナから蝋燭を受けとると、廊下から灯りを拝借して戻ってきた。

「ごめんなさい」セラナは先に謝っておいた。何を言われても自分に弁明の余地など無い事を彼女はよく分っていた。

 だがテオはあれこれ問い質そうとはしなかった。ただ塚の皆が彼女の事を心配している事を告げ、最後に一言だけ無茶が過ぎると彼女の行動を諌めた。


「でも、どうして分ったの?」セラナが不思議そうな顔をした。

 テオは勘だと答えると、昨晩の会話で自分が娼館の奴隷達の話題を不用意に持ち出してしまった事が引っかかっていたのだと言った。そして霧の帳の集落を訪ねた帰りにまさかと思い、念の為この館まで様子を見に来たのだ。


 テオはまた、この物置部屋へ来る少し前に、通路の奥にある角部屋に立ち寄っていた。先日の埋葬の折に、部屋を出ようとしたセラナが階段とは反対側に行こうとしていたのを思い出したからだ。

 テオは扉越しに部屋にいた奴隷の青年からセラナが来た事を聞かされ、彼女がまだこの館のどこかに隠れていると確信た。そして鍵の掛けられていない部屋を片端から改めていたのだ。


 二人は暫く話し合い、塚の用向きの帰りとして堂々と裏門から出て行く事にした。ここへ来るときにはテオが左手の印を見せると街の門番も館の守衛も黙って彼を通してくれたからだ。

 それに通路は薄暗く、下手にこそこそしない方がかえって誰も二人の事を気に留めたりはしないに違いない。


 問題は裏口の守衛の男が、来るときは一人であったテオが他にもう一人連れている事をどう思うかだが、館の出入り口は他にも沢山あるだろうから、たとえ呼び止められようとも何かしら言い訳すれば良いと少年は言った。


 それから二人は連れ立って地下室を出ると、階段の下側から上の階の様子を窺った。二人の男が降りてくるのを物影でやり過ごし、入れ違うように上の階へと忍び足でのぼって行く。


 上の階の廊下にでると、酒を載せた台や汚れ物の入った籠などを運ぶ下働きの者達が忙しなく行き交っていた。テオの言う通り廊下は確かに薄暗かったが、それでも外套姿の子供が二人連れで歩いていてはやはり怪しまれるのではないかとセラナは急に不安になってきた。


「行くよ」テオは躊躇いもせずに廊下へ踏み出した。セラナは一瞬引きとめようとしたが間に合わなかった。仕方無しに頭巾を目深に被ると、足早にテオの後を追った。


 出口を目指す間中、セラナは目の前を行くテオの足元だけを見詰めながら、彼の背に寄り添うように歩いた。

 地下室の闇から出られた開放感と、誰かに見咎められるのではないかと言う強迫観念が混ざり合って、セラナは今にも吐きそうになる。だが、そんな彼女の心配とは裏腹に、二人を気に掛ける者など誰もいなかった。

 ときには夜の娼館での子供の二人連れに好奇の目を差し向ける者はいたが、彼等の外套が連日死者を引き取りに来る者達のそれだと分ると、すぐに視線をそらせてそれきりである。


 しばらく黙々と歩いて行くと、角を曲がった先の突き当たりに館の裏口が見えた。その少し手前に守衛の控え部屋があり、部屋の灯りが廊下に漏れ出ているのが見えた。

 裏口の扉が開け放たれていればそのまま駆け出したいところであったが扉は閉ざされており、恐らく施錠されているに違いなかった。


 守衛の男に声を掛けて堂々と館の外へ出るしかない。テオとセラナは部屋の前までくると、僅かに開かれた扉越しに部屋の中の様子をうかがった。

 中から男の話し声が聞こえてきた。どうやら守衛の他にもうひとり誰かいる様子であったが、彼等が何を話しているのかまではよく聞き取れなかった。


 テオは扉を二度叩くと部屋の中を覗き込んだ。すると守衛の他にいたのはアマディオであった。

「用向きは済んだから……」そう言いかけてテオは言葉を詰まらせた。アマディオ達も胡乱な表情でこちらを見ていたが、背後のセラナの存在にはまだ気付いていない様子だ。

「こんな所で何をしている?」アマディオが問い正した。テオは何とか言い繕おうと口を開きかけたが、それよりさきに背後にいたセラナが露骨に後ずさりをしてしまった。


 ようやく何かに気がついた様子でアマディオがテオともう一人を呼び止めた。テオは咄嗟に部屋の扉を強く閉めると、廊下に立てかけてあった棒状のものを扉の取手につっかけた。


「セラナ、地下は駄目だ!」テオは叫んだ。振り返ると少女が元来た廊下を地下への階段がある方へ曲がろうとしていたからだ。


 セラナはテオの言葉に反応すると、通路を反対側へ曲がった。アマディオ達のいる部屋の扉は内側から何度も強く引かれ、今にもこじ開けられそうであった。テオは壁際に積まれていた荷や棚を引き倒し、すぐセラナの後を追った。




 夜が更け、マイラが宵星の集落に戻ってみると家の中ではアンがひとりで待っていた。心配そうにする彼女にマイラは少女がまだ墓所の小屋に戻らぬ事を告げ、マルセンに話は伝わっているかと訪ねた。


 アンは頷くと、テオが知らせに来てくれたと答えた。それからアンは、今度はそのテオがマルセンの使いに出たきり戻らないのだと言い、落ち着かない様子で居間の中を行ったり来たりしていた。


「まさか、街の者達に連れて行かれたんじゃないわよね」アンは祈るような眼差しでマイラに詰め寄った。

「とにかく落ち着いて……二人ならきっと大丈夫だから」マイラは一先ずアンを落ち着かせる為に、半ば強引に彼女を椅子に座らせた。それからマルセンはどこかと尋ねると、アンはホルンベルのところへ様子を見に行ったと答えた。

 マイラはもう一度子供達を探しに外へ出掛けようとしたが、アンにそれを引き止められると、まずはマルセンが戻ってくるのを二人で待つことにした。


 それから四半刻もしない内にマルセンが戻ってきた。アンが子供達の事で何か分かった事は無いかと尋ねたが、マルセンは静かに頭を横に振るばかりであった。

「もう一度、探してきます」マイラがそういって立ち上がると、マルセンが呼び止めた。


「もうよい。じきヨアキムも戻ってこようが、それで見つからんのなら待つより他はあるまい」マルセンの言葉にアンは何か言いたげであったが、彼女は無言のまま静かに席を立つと奥の部屋へと姿を消した。


「バローネの者でしょうか」マイラが尋ねると、それは無いだろうとマルセンは答えた。彼はそれから暫く腕を組んで思案を巡らせ、もし朝までに二人が戻らなければマルセン自らバローネの娼館を訪ねてみる事にした。


「すまぬがお前は墓所の小屋へ戻っていてくれるか? 二人が何時戻ってくるやも知れぬからな……」マルセンはそう言うとまた腕組みをしながらひとりで考え事を始めた。

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