第17話 バローネの館(二)

 橋を渡ってネビアの西門から街に入ると、ちょうど正午を告げる鐘の音が鳴り響いた。宵星の一門はいつものように隊列を組んで街の裏通りを粛々と歩き続けた。


 通り沿いの住人達は連日往来する彼等の事に慣れた様子で、いまさら特に気にする者はなかったが、そのかわりに墓所の番人である塚守りたちがこうも頻繁に街に出入りする訳をあれこれ勝手に噂し合っていた。



 バローネの娼館の裏手に辿り着くと、マルセンが裏口の扉を叩いた。いつもはすぐに内へ招かれるのであるが、この日は随分とまたされる事になった。


 扉を叩くのが五度目を数えて、ようやく中年男が顔を覗かせた。男はマルセン達が初めて見る顔であったが、彼の方は事情を心得ている様子で、慌てて扉を開くと丁重に彼等を迎え入れてくれた。


「遅くなって相済まんです、旦那……」中年男は背を折るようにして侘びた。

「バローネの奥方様が突然お越しでして、ちょうど差配役様もアマディオの旦那も上へ呼ばれておらんのです」男は応対が遅れた理由をマルセンに説明すると、今日の葬儀の立会い役は彼が勤めると告げた。


 この日もヨアキムは不在で、弔い手の人数は三人であった。マルセンは応対に現れた中年男と一足先に地下へ向う。あとからテオとマイラが荷物を手分けして持ち、開け放たれたままの扉をくぐって館の中へと入っていった。


 すると彼らより少し遅れて別の人影が閉じかけた扉の隙間へ身を滑り込ませた。その人影は宵星の一門と揃いの外套を身にまとい、頭巾を目深に下ろすと足音を忍ばせるように暗い廊下を奥へと進んだ。


 人影は勝手知ったるといった様子でマルセン達の通った廊下をたどると、地下へと続く階段のある辺りで彼等に追いついた。そこから、誰にも見咎められぬよう距離を空けたまま影祓い達の後をついて行った。


 ちょうど人影が階段を降り始めようとすると、下から案内役の中年男が一人で戻ってきた。だが人影が慌てず彼に道をゆずってやると中年男はただ軽く会釈をし、あとは特別不審がる様子も見せずに人影の脇を通り過ぎた。


 人影は地下の通路に出ると、物音のする部屋の前に向った。扉の隙間から灯りがもれており、中を覗くとマルセン達の姿があった。


 彼等は祭壇を設けて香を焚き、弔いの作業にとりかかろうとしていた。床に敷かれた布の上に死者の亡骸が二体横たえられているのが見えた。わずかに開かれた隙間からではそれ以上詳しくは分らなかったが、死者は若い男女のようだ。


 人影は死者達の風体を確かめると扉の前から離れた。それから廊下の向こう側に見える角部屋を見据え、意を決した様子でそちらへ歩みだしたが、数歩進んだ辺りで階段の方から複数の足音が降りてくるのが聞こえた。


人影は咄嗟に階段傍の暗がりへ転がり込むと、物影に身を潜めた。


 しばらく息を殺したまま隠れていると、先ほど階段ですれ違った中年男が数人の男達を引き連れてマルセン達のいる部屋へ入っていくのが見えた。


 人影は暗がりから出ると、声のする扉と廊下の突き当たりに見える部屋とを交互に見比べた。どうやら通路の奥にある部屋に用があるらしかったが、人目につくのは避けたいのだろう。


 少しの間考えてから時を改める事に決め、身を隠せる部屋は無いかと廊下の扉を順に探り始めた。そして三つ目の扉に聞き耳を立て、それから取手を静かに手前に引いた。


 鈍い音が廊下に響き渡る。部屋の中は真っ暗で、むせ返るほどのカビ臭さが立ち込めていた。人影は一旦廊下へ戻ると懐から紙で巻いた蝋燭を取り出し、壁の燭台から火を失敬して、灯りをともした蝋燭を手に先程の部屋の中へと入っていった。




 部屋の中は物置であった。人影は蝋燭の灯りをかざして室内の様子を慎重にうかがっていたが、ふとある事に気が付いた様子で部屋の奥へ踏み入れるのを躊躇した。


 ここは数日前にマリエラと言う娼婦の遺体が安置されていた部屋であった。そして人影は娼婦の遺体の傍にたつ女の亡霊の事も承知していたのである。


 それでも人影はこの部屋に留まる事を選ぶと、音をたてぬように部屋の扉をそっと閉ざした。人影にはどうしても果たさねばならぬ目的があった。


 この階から人がいなくなるのを待ち、廊下の突き当りの部屋へたどり着くこと。その為であればたとえこの部屋に女の亡霊がでようとも、部屋の奥へ進むしかなかった。もし今、館の誰かがこの部屋に入ってくれば、入口付近にとどまっていたのでは隠れる余地がどこにもにも無いからだ。


 人影は細長い造りの部屋の中、戸棚と荷物の間を縫うように進んだ。なんとか部屋の突き当たりまで進むと、右手に少し開けた空間があった。


 この場所である。目の前には横長の作業台が置かれていた。あの日、一人の娼婦の亡骸が横たえられていた作業台だ。そしてそのすぐ傍に女の亡霊が薄ら寒い表情をして立っていたのを鮮明に思い出した。


 全身に走る悪寒。蝋燭を持つ手が小刻みに震え、次第に息苦しさがこみあげてきた。これは恐怖だ。墓所で手厚く葬られたはずの女の霊が、その空ろな眼で闇の向こうからこちら側を凝視している……そんな錯覚がどうしてもぬぐいされない。


 肌を刺すような女の視線が恐怖による幻だと分ってはいても、一度芽生えた恐怖を意思の力のみで振り払うのは至難の業であった。


 人影は己が唯一知っている魔除けの呪い(まじない)を口にした。かつて影祓いの少年に遊び半分でおそわった呪い文句であった。その言葉を何度も小さく繰り返す事で、己の中の恐怖を一時心の片隅へと追いやる事に成功すると、忘れかけていた呼吸をようやく取り戻す事ができた。


 人影は喘ぐように息をしながら外套の頭巾をむしり取った。頭巾の下から現れたのは墓所で匿われていたはずのセラナであった。




 引き取った遺体を墓所の一画に埋葬し終えた後も、テオとマイラは暫くその場に留まっていた。帰りにセラナの様子を見に行く為である。


 二人は娼館からやって来た立ち合いの者達が居なくなるのを待ちながら、今日の埋葬について考えていた。


 埋葬された遺体は二つで、若い男と女の物であった。いずれも酷く痩せこけて眼窩の周りと頬の辺りが浅黒く落ち窪んでいるように見えた。それは病のせいばかりでなく、ろくに食事も与えられずに娼館の地下室に隔離されていたからに違いない。


 館の地下にあと何人の病人が放置されているのか正確には分らなかったが、その全てが恐らくこのまま見殺しにされるのだとテオにも分かった。あるいはセラナがその仲間入りをしていたかも知れぬと思うと一層気分が滅入ってくる。


 ただ一点、気分が楽になれた事と言えば――それは決して喜ばしいという意味ではなかったが――今日埋葬した者達の中に子供の姿は無かったとセラナに知らせてやれる事であった。


「行きましょう」マイラがいった。埋葬に立ち会った者達はとうに街へと引き返した後であった。


 テオとマイラがいつものように周囲に気を配りながら物置小屋の中を覗くと、そこに待っているはずのセラナの姿は無かった。二人は顔を見合わせた。マイラは眉間に皺を寄せ、テオは少しおどけたそぶりを見せながら小屋を後にした。


「まったく困った子ね。私はこの辺りを探してみるから、貴方は集落の方を見てきてくれるかしら……」マイラは、あの少女は今頃どこをほっつき歩いているか知らんと深い溜め息を着きながら周囲を見渡した。


 セラナには小屋から出るなと言っておいたはずだが、あの娘は元々一処でじっとしていられるような性質の子ではなかったのだ。


 あるいは何かの事情で他所へ移されたとも考えられる。マイラは何も聞かされてなかったが、ホルンベルが少女の為に新しい隠れ家を用意してくれたのかも知れない。


 それでも陽のあるうちに少女を他所へ移そうなどとホルンベルが考えるとは思えなかったが、とにかく今は一刻も早く少女を見つけてやらねばならなかった。

「帰ったらまず親方に知らせるのよ」マイラはそう言い残すと小屋を後にした。


 ひとりその場に残されたテオは、マイラの言い付けどおりひとまず集落へ戻ると、先に戻っていたマルセンに事の次第を話した。マルセンもマイラ同様深いため息をき、無言のまましばし考え込んでいたが、やがてテオに視線を戻すと霧の帳までの使いを言いつけた。


「無駄足と思うが、セラナが向こうに居らんか見てきてくれ。この事はホルンベル以外の者には他言無用だ、よいな」マルセンはテオにランプを持たせると、帰りはセラナを探しながらセムの川沿いの道を戻ってくるように言った。




 テオが霧の帳の集落へ着いたのは日没まであと一刻程となる頃であった。


 集落に人気は殆どなく閑散としていた。霧の帳の影祓い達は他の塚の者達とは異なり、墓所の外を巡って死者達を弔ってやるのが役目であったからだ。


 ホルンベルもやはり不在で、かわりに下働きの男が顔を覗かせると、怪訝そうな顔をしながら何か用かと尋ねてきた。


 テオは詳細を告げず、ただ宵星の頭領の使いで来たとだけ伝え、左腕を前に突き出した。掌に刻まれた宵星の塚の印を男に見せ、ホルンベルにマルセンからの使いがあった旨を伝えるよう頼んだ。


 テオは来た時とは別の方角へ集落を抜けると、セム川の畔に出た。霧の帳の集落はネビアの墓所の北にあり、丘一つ越えればすぐ川沿いの道へ出ることができた。


 テオは土手の上を歩きながら河原や対岸の様子にそれとなく気を配り、枯れ林や潅木の間にも視線を向けてみたが、やはり何処にも少女の姿はなかった。


 もとよりセラナがこの辺りに潜んでいるとは思っていなかった。少女の匿われていた物置小屋はセム川のいずれの岸からも遠く、彼女はそれほどこの辺りの土地に詳しくないからだ。


 結局日暮れ近くになってもセラナの事は見つけられなかった。気が付くと街の城壁が川の対岸に迫っていた。木々の間から街の城壁にたかれた大きな篝火が垣間見えた。


 セムの流れはこの不毛の大地を北西から東に横切ったあと、ネビアをかすめるように大きく曲がって南へ下ってゆく。そして丁度その突き出た辺りにネビアの西門があった。


 この門は死者の門とも呼ばれており、死者達を墓所へ迎え入れる為に彼等影祓い達がよく用いる門であったが、逆にこの門を通る時以外は彼等が街へ立ち入る事は滅多に無かった。


「……まさか」テオははっとした様子でその場に立ち止まると、薄暗がりの先に見える街の西門を見た。

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